第24話「四十七台の刺客」



 1942年9月、キュヒラー上級大将の率いるドイツ北方軍集団に対して、バルト3

国はその門を開いた。各首都で連鎖的にクーデターが起こり、ドイツ軍情報部と

連絡を取った反ソビエト派が政権を握ったのである。北方軍集団は急に前に移動

した戦線に展開し、その戦線は薄く伸び切って、新たな攻勢を発起することは困

難になった。

 クルーゲ上級大将のドイツ中央軍集団は、ミンスクから大陸橋方面に押し出し、

ソビエト軍の強固な抵抗に遭遇していた。

 そして、リスト元帥のドイツ南方軍集団は、ブリビャチ湿地の南西、ウクライ

ナの古都キエフに迫っていた。

 キエフを失うことはウクライナを失うことであり、父なるドニエプル川の水運

を失うことである。スターリンはジューコフ参謀総長をキエフ防衛のための南西

方面軍司令官に任命し、ソビエト軍の予備を惜しまず投入し、街の防備を固めさ

せた。あまりにも厳重なので、敗走してきたソビエト軍が市内に入れないほどで

あった。





 装甲部隊は本来、弱いところを機敏につくための兵器としてデザインされてお

り、強固に防御された地形への正面攻撃には向かない。キエフが攻防の焦点になっ

たことで、ドイツの戦車師団群は南北でキエフを回り込もうとし、これを阻止し

ようとするソビエト戦車旅団群と激突した。

 ドイツ軍はドニエプル川を渡りキエフの後方をうかがうため、チェルカッシィ

(キエフの南東200km)で敵前渡河を敢行する作戦を立てた。担当するのは新設の

第4戦車軍、率いるはアフリカから転じた、マンシュタイン上級大将である。





「中央軍集団は主に砲兵によって攻勢をかけ、スモレンスク方面へ3日で13キロ前

進しました」シュルツ少将・第4戦車軍参謀長はマンシュタインに報告した。歩兵

の標準的な行軍速度は1時間に5キロ程度とされているから、これはソビエト軍の

抵抗が激しいことと、この方面のドイツ軍が無理な前進による損害を避けている

ことを意味している。

「空軍からの報告では、ドニエプル下流域のソビエト軍予備が北へ移動した兆候

があります」シュルツは航空写真を取り出して、1週間前まであった兵舎が引き払

われていることを示した。「問題は、戦車だ」マンシュタインは表情を崩さない。

「態勢が整わぬうちに、橋頭堡(渡河や上陸直後に確保した地域)に重戦車で突入

されるのが最も困る。ヘルマン・ゲーリング空挺師団は、すでに総統の新兵器を

受け取っているのだな」シュルツは答えた。「はい閣下、上陸部隊にも若干数が

配備できる見込みです」

「あれは信用できるのかな」マンシュタインの問いに、誰も答えなかった。





「こいつぁ、おったまげた」甲高いタービン音を響かせて、東ポーランドのブレ

スト駅に入ってきた復水式蒸気機関車を見て、マイソフはその大きさに驚いた。

蒸気を車体後部の冷却室に導き、回収・再利用しようという復水式蒸気機関車は、

石炭や水を補給する設備の少ないウクライナのような地形に適していた。複雑な

機構を引きずって走るこのタイプは、実のところ、燃費がひどく悪い。それでも

背に腹は代えられないのが今のドイツである。

 ドイツからソビエトに向けての鉄道路線は、そうたくさんあるわけではない。

事実上、補給幹線となりうる路線は3つしかなく、それぞれ究極的には、北のレニ

ングラード、中央のモスクワ、そして南のキエフに通じている。それぞれの幹線

がドイツの軍集団に対応していることは偶然ではない。中央軍集団が南方軍集団

のために牽制攻撃をかけることは迂遠のようだが、それによってキエフ自体への

砲撃や、渡河攻撃のための補給物資を温存することが出来るのである。

 誰かがマイソフを怒鳴る声がする。ライヒスバーン(ドイツ国有鉄道)の制服

を着たマイソフは、給水を手伝うために駆けて行った。





 銃声は夜が明けても間断なく続いていた。日光がドニエプル河畔の生者と死者

を公平に照らし出す。岸辺には大小のゴムボートが散乱している。

 仮設橋は半分ほど完成していた。専用の舟の上に組み立て式の渡り板を固定し、

それを順々につないで行く。その東側の固定位置を確保すべく、ドイツの歩兵と

工兵が夜間渡河を行ったのである。

 上空をドイツ戦闘機が盛んに行き交っていた。今日、ここだけは、どうしても

航空優勢が必要であった。もう9月も終わろうとしており、今日ドニエプルを渡れ

なければ、今年はもう渡れないであろう。

 夜が明けてから、ヘルマン・ゲーリング空挺師団の兵士を乗せたグライダーが、

次々にドニエプル川東岸に着陸していた。戦力を急速に増強するためである。ド

イツ軍はグライダー降下をあまり行わないのだが、ちょっとした重装備を確実に

送り届けるために、今回は機材の大盤振る舞いが行われていた。





 ジューコフはキエフ市内の地下壕で、呆然と受話器を置いた。スターリンはス

モレンスクを脅かされると、せっかくキエフの東に布陣していた戦車旅団のほと

んどを列車に乗せて、大陸橋の防衛のために呼び戻してしまっていたのである。

 重戦車連隊がひとつだけ、鉄道輸送の列車の手当がつかないために、まだ出発

していなかった。ジューコフは直ちに最寄りの歩兵部隊と協力して、ドイツ軍の

橋頭堡を攻撃するよう命じた。

 キエフの運命は、47台の重戦車が、いまや握っていた。



 最初にそれに気づいたのは、第13戦車師団の戦術的指揮下に置かれた、Fw189偵

察機であった。早朝の空気はすでに不吉な冷たさを含んでいる。その中を渡河地

点めがけて、歩兵を鈴なりに載せた、一群のKV-I重戦車が進んでくる。その数、

約50両。

 報告はすぐに師団司令部に送られ、空軍連絡将校を通じて、付近の空軍基地に

急報された。渡河地点では架橋の段取りが変更され、船橋の一部がそのまま艀と

して戦車の輸送に回された。組み立て式の橋を上部に広げた船の上に戦車を乗せ

て、そのまま対岸まで運ぶのである。急いで対岸の対戦車能力を高めなければな

らない。



 12機のFw190A戦闘機が、ソビエト戦線後方での移動妨害任務中に連絡を受け、

最初にKV-Iの迎撃に向かった。爆弾は積んでいないが、新鋭の長銃身20ミリ砲が

ある。

 銃撃を受けて、ソビエト歩兵たちはたちまち戦車から離れ、取り残された。し

かしKV-I戦車は軽微な損傷を受けながらも停止しない。執拗にドイツ機は食い下

がり、ついに2台のKV-Iがエンジングリルから飛び込んだ弾片のために停車した。

 残る45台は、渡河地点に向けてひた走っている。あと1時間でドイツ軍の前哨と

ぶつかるはずである。



 ちょうど発進準備に入っていた、9機のMe110E双発戦闘機から成る飛行中隊が、

次の攻撃を仕掛けた。双発戦闘機といっても、爆弾を積んで地上攻撃に使われる

ことが多い。今回も爆装しての出撃である。

 250キロ爆弾が次々に投下される。直撃弾は出ないが、これだけの大型爆弾とな

ると道路がえぐられる。足を取られて脱落する戦車、爆風で横転する戦車が続出

する。さらにMe110は20ミリ機関砲で攻撃を続け、都合5台を撃破し、脱落寸前の

戦車で隊列を細長くさせた。



 渡河地点に進出した第13戦車師団の師団長はまだ西岸に残っており、現地の指

揮は自動車化歩兵連隊長が取っていた。前哨部隊からの報告がすでに入り始めて

いる。「空軍ではKV戦車を止められない模様です」「速すぎる。工兵の作業が間

に合わんぞ」連隊本部は焦燥感に満ちていた。

「ヘルマン・ゲーリング師団、一部が攻撃位置につきました」「一部か」連隊長

は聞き返し、それきり何も言わなかった。

 時間稼ぎにしか、なるまい。

「戦車です」連隊本部になっている農家の外から、歩哨の声がした。参謀が思わ

ず駆け出す。わずか4両の4号戦車だが、その姿はこの状況では何より頼もしかっ

た。歩兵はわずかずつ増強されてきている−貴重な突撃艇(小型モーターボート)

やモーターボートは架橋作業のために残して、歩兵はゴムボートを漕いでドニエ

プル川を渡って来るのである。その細く途切れない流れに歓声が起こり、皆が戦

車に手を振る。

 歩兵たちは、自分たちが直面している危険を、直感していた。



「これでは身を隠すところがないぞ」空挺部隊の大尉はぼやいた。かろうじて丈

の高い雑草が、伏せた兵士を隠してくれる。

 手近に降りた兵士を集め、無線機と新式機材をようよう確保した一団は、中隊

規模の戦闘団とでも言うしかない。それでも空挺部隊の兵士は、即席の戦闘組織

を作り上げて戦うよう訓練されていた。

 わずかな潅木の茂みに対戦車班を配置した大尉は、部下たちを広く散開させ、

有り体に言えばいつでも逃げられるように配置した。数発の手榴弾を有り合わせ

のベルトでぐるぐる巻き、集束手榴弾を作る。グラナートビュクセでは、おそら

くKV-Iのような重戦車には対抗できないと思われたが、ないよりは気が強くなる。

大尉は自ら対戦車班の指揮を執るといい、無線手と中尉−たまたま次位の階級の

士官−を数十メートル後退させた。

 来た。ソビエト戦車隊は幸い長い縦列になっている。1台はやれるかも知れない。

「俺が手榴弾を投げたら発砲していい」大尉はささやくと、先頭の1台を待った。

 あと20メートル。心臓の音が聞こえる。大尉は初めて降下したときのことを思

い出していた。

 急にKV-Iが停止し、砲塔が回る。他の兵士が散開していた方向である。やはり

見つかってしまったか。大尉は手榴弾の安全ピンの紐を引くと、路肩に沿って数

歩走りざま、ソビエト戦車の足元に集束手榴弾を投げ、身を伏せる。

 爆発。小石が肩に傷を作る。大尉が顔を上げると、先頭車の片方のキャタピラ

が切れている。運がいい。先頭車はもう片方のキャタピラを響かせて路肩に落ち

込み止まる。後ろに次の1台がいる! シュッ。大尉の頭上を何かが飛び過ぎる。

グラナートビュクセの対戦車榴弾である。KV-Iに正面から当たっては、とても装

甲を貫通できない。「大尉!」新機材を持った兵が茂みを飛び出してくる。素早

く折り敷いた兵は新機材を構える。無茶だ。KV-Iの機銃が鳴る。兵は最後の瞬間

に、新機材を放つ。

 それは光の矢に見えた。KV-Iの正面装甲を貫通……いや違う。高熱で融けてへ

こんでいる。

 ヒトラーは、成型炸薬弾を使ったドイツ独特の兵器パンツァーファウストの概

念図を自ら描き示し、国防省兵器局に開発を命じていたため、史実より早く配備

が実現したのである。パンツァーファウストはマッチ棒のような使い捨てのロケッ

ト弾で、膨らんだ先端部分に炸薬が詰まっている。もし装甲に正面から当たれば、

熱い炸薬が装甲を溶かし、車内に吹き込むのである。

 それでもKV-Iの正面装甲はびくともしない。だが……2台目の戦車はそれきり沈

黙してしまった。へこんだ部分が機銃のマウント部分であることに気づいたとき、

大尉は真相を悟った。高熱の炸薬が照準穴を通じて車内に流入し、機銃弾を誘爆

させて、戦車兵たちを殺したのである。

 2台目の戦車は、細長いアンテナをつけていた。指揮官車だ。そのことに気づい

た大尉が微笑したとき、路肩に落ちた1台目の戦車の砲塔背面についた機銃が、動

いた。

「大尉!」大尉が最後に聞いたのは、部下が自分を呼ぶ声であった。



 重戦車連隊長は砲塔にいたため、機銃弾の暴発から辛くも逃れた。彼は細長く

なり過ぎた隊列を整えるため、いったん後続を待つことにした。どちらにせよ、

連隊長車はもう使い物にならない。

 戦車は38両残っているが、そのうち無線機を持っているのは2両に過ぎない。

外国との連絡手段を兵に与えたくないという政治的配慮もあったが、主に電子産

業の立ち後れから、戦車部隊の無線機の普及状況はひどく悪かった。ソビエト戦

車の戦場での進退がひどくぎこちないのは、甲冑で耳をふさいだ中世の騎士のよ

うに、細かい指示を行き渡らせる手段がないせいもあった。

 連隊長は無造作に5台の戦車を選び、偵察隊として先行させることにした。選ば

れた戦車の乗員たちはむっつりとその指示を受け止めた。連隊長は口にしなかっ

たが、彼らは知っていた。もしこの場から逃走してソビエトの戦線にたどり着け

ば、間違いなく銃殺であると。



 ドイツ軍の橋頭堡では、ソビエト重戦車連隊が再集合のため小休止したことが

伝えられていた。「これで塹壕を掘りきれますかな」「そうだとよろしいですが」

指揮所では自動車化歩兵連隊と工兵隊のスタッフがぽそぽそと言葉を交わす。

大規模な架橋作業のため、師団固有の工兵大隊の他に、独立工兵部隊が一時的に

いくつも集められている。

 戦車はすでに合計12台が前線近くに配置されていた。長砲身の4号戦車と言えど

も、KV-Iと互角に戦うことは出来ない。数の優勢を確保できる見込みは、かなり

薄い。

 自動車化歩兵連隊長は副官に言った。「突撃艇で手榴弾を運ぶように、師団司

令部に要請しろ」副官は無言でうなずいて、無線班のところへ行った。連隊長は

続いて連隊本部班長を呼び、伝令兵たちを戦闘班として待機させるよう命じた。

 防衛線が突破され、指揮所近くまでソビエト戦車が突入してくることを、もは

や考えねばならなかった。



「すまんな」戦車師団長は飛行士に言って、握手した。笑顔はなかった。飛行士

のほうがさばさばした表情をしていた。人生はこんなものですよ、と言わんばか

りであった。

 空軍部隊のほとんどは、指揮系統が独立していて、陸軍の要請は受けても命令

は受けない。そのことには、ひとつの例外があった。各師団に提供された戦術偵

察機がそれである。

 小型爆弾を積んだ2機のFw189偵察機は、草むらを刈り取った仮設飛行場を飛び

立って行った。ソビエト戦車群を食い止めるために。



 ジューコフの司令部は地下室にあったが、それでも時折激しい振動が伝わって

きた。ドニエプル川の西岸にあるキエフに対して、ドイツ軍は南東方面を激しく

攻め、キエフをドニエプル川の東岸から切り離そうとしている。もしそれを許せ

ば、キエフの命運は尽きる。

 ソビエト空軍は優勢を失ったが、多くを学びつつあり、ドイツ空軍に大きな出

血を強いていた。空軍の傘によって、かろうじてキエフはドイツの猛攻を支えて

いる。

 ジューコフはドニエプル東岸から次々と入ってくる報告に目を通していた。歩

兵部隊はドイツ空軍の機銃や爆弾に追い散らされ、橋頭堡への攻撃位置につくこ

とが出来ていない。重戦車連隊だけが前進を続けているが、小規模ながら執拗な

妨害に遭っている。

 至近距離で大きな音がして、天井から何かがぱらぱらと崩れ落ちた。司令部は

騒然となり、ジューコフは総員退避を命じた。

 戸口を出ると、太陽が眩しかった。隣の民家に爆弾の直撃があったらしい。高

射砲の弾丸はとうに尽き、時折思い出したように飛来するソビエト戦闘機だけが

頼りであった。

 もう仮設橋は出来上がろうとしているはずである。ジューコフはそのことを思っ

た。



 また1台がドイツ機の爆弾に破壊された。ソビエト兵士の神経は音と光の刺激に

対してすでに麻痺している。行軍を続けてきたソビエト戦車群が、指揮官の命令

で停止した。

 前方にドイツ軍の作った障害物がある。針金製で簡単に踏み潰せるものだが、

そばにドイツ歩兵が隠れていることを暗示している。すべてのKV-Iが弾薬を用意

して待機する中、5台のKV-Iがそろそろと前進する。

 ちゃちな針金の三角柱を先頭のKV-Iが踏み潰す。次の瞬間、KV-Iがわずかに浮

き上がり、轟音が続いた。地雷だ。他にも道をふさいでいる障害物を避けて通ろ

うとしたもう1台が、やはり対戦車地雷を踏んでかく座する。ドイツ軍は悪魔のよ

うにずる賢い。

 連隊長は路肩を降りて麦畑を進むよう後続車に合図した。麦畑を進むKV-Iがま

たも爆発音に包まれるが、損害なく前進を続ける。ドイツ軍はまだ大型の対戦車

地雷をそれほど多く運び込んでいないのである。いま爆発しているのは、小型の

対人地雷だろう。

 余裕を持って前進を眺めていた連隊長の視野の隅を、光の矢が横切った。

 対戦車班が深い塹壕に隠れていたのである。真横から見舞われたパンツァーファ

ウストは、装甲を貫通して車内に飛び込み、砲塔のハッチが主砲弾薬の誘爆で吹

き飛ぶ。その熱風にあおられた連隊長は、思わず自分のハッチを閉めた。

 カタカタと車載機銃が鳴る。連隊長はその時、重大なことに気がついた。ハッ

チを開けて指示を出そうとした瞬間、車体の側面にカツン、という何かが当たる

音がした。

 数秒後、連隊長はその位置から、赤く焼けた炸薬が車内に吹き出して来るのを

見た。塹壕に隠れていたドイツ兵が危険な接近を試み、マグネット式の対戦車吸

着地雷を取り付けたのである。

 連隊長は、新たな指示を出すことが出来なかった。





 対戦車班がすっかり撃退されてしまうまで、それほど長い時間はかからなかっ

た。ソビエト戦車はあまりにも多く、機銃の死角を消し合うので、発見されると

接近は出来なかった。KV-Iは砲塔背面にも機銃があるので、うかつに忍び寄ると

いきなり撃たれた。

 彼らが時間を稼いだことは、無駄ではなかった。そっくり1個中隊(14両)の4号

戦車が、ソビエト戦車の前に立ちはだかることが出来たからである。

 ドイツ戦車は、ソビエト戦車の側面に回り込もうと、その右側へ一斉に突っ込

んだ。ソビエト戦車は互いに連絡の取りようがなく、各自の判断で発砲した。4号

戦車が3台命中弾を受けて破壊されたが、30台からの一斉射撃の戦果としては微々

たるものだった。ソビエト戦車は停車せずに射撃したため、精度が悪くなったせ

いもあった。

 ドイツ戦車は小隊ごとに停車し、射撃し、今度は後ろに回り込もうとした。

ソビエト戦車は統制が取れず、回頭しようとして後続車と衝突するものも現れ

た。

 ドイツ戦車は被弾すると確実に脱落する。ソビエト戦車は当たり所が悪くなけ

れば破壊されない。統制に大きな差があるにもかかわらず、ドイツ戦車もまたた

く間に半数が失われる。

 そのとき、上空にエンジン音がした。



 周囲に散らばっていたドイツ歩兵たちは、飛行機の飛んできた方向と、ドイツ

機らしいシルエットを見て表情をほころばせたが、すぐに不思議そうな表情になっ

た。

 フロート付きのその機体は、見たことがないマーキングである。それがルーマ

ニア空軍のマークであることに、誰も気がつかなかった。

 ルーマニア空軍がソビエト黒海艦隊に対抗するためにドイツから輸入したHe115

水上爆撃機は、最新式の航空機を見ているものにはどうしようもなく遅く見える

速度で、ソビエト戦車に突っ込んで行った。He115はなまじ低速なので燃費が良く、

黒海からはるばる飛んできたのである。

 なまじ遅いので投弾も正確である。

 ソビエト戦車の群れの中心近くに落ちた250キロ爆弾は、2台のKV-Iをなぎ倒し、

残りをパニックに陥れた。近くにドイツ歩兵がいるのでハッチを開けられず、ハッ

チを開けられないので上空に1機しかいないことが分からない。残ったドイツ戦車

は、ここぞと有効弾を送り込む。

 煙幕手榴弾をぶつけられるKV-Iもあった。ドイツ兵が接近の準備をしている。

機関銃に取り付いた戦車兵は、不吉で空ろな手応えを感じた。

 弾切れである。戦車だけであまりに多くの歩兵を相手にしてきたので、機関銃

弾が尽きたのである。

 コトン、と側面に何かが取り付けられた音がした。



 橋頭堡は、ついに守り切られた。





「ジューコフ将軍ですね」モスクワから来た士官は、ぶっきらぼうに言った。

「スターリン閣下が、直ちに指揮権を参謀長に譲り、モスクワに出頭するように

とお命じになりました」士官の乗ってきた飛行機がある。自分がキエフを立つ最

後のソビエト軍人になるだろう。参謀長がうらやましそうな顔をする。

 代わりにスターリンに会ってくれるか、とジューコフは思った。



<ヒストリカル・ノート(第23話・第24話)>



 ドイツ兵士は、ソビエト軍の短機関銃のほうが一度に多くの弾を込められるの

をうらやましがっていて、捕獲するとよく自分たちで使いました。

 長砲身75ミリ砲を積んだ戦車、突撃砲などの生産は1942年初めに相次いで始ま

りましたが、1942年いっぱい深刻な弾薬の不足が続きました。ロンメル将軍のア

フリカ軍団が弾薬のなくなった長砲身75ミリ砲付き4号戦車を連れ回していたのは

有名です。

 ルーマニアは終始ドイツに大きな兵力を提供し続けましたが、ハンガリーは史

実における対ソビエト戦争の最初の年である1941年には、わずかな兵力しか提供

しませんでした。初年度の恐ろしい損害の穴を埋めるため、ドイツはハンガリー

に強力な政治的圧力をかけ、1942年に半個軍程度の大規模な兵団を提供させまし

た。この世界ではドイツとルーマニアの関係が史実よりも良く、ハンガリーがこ

れに危機感を抱いています。

 ローゼンバーグはエストニア生まれで、第1次大戦が続いているうちから反ソビ

エト活動に携わっていました。ローゼンバーグは実際に1941年に東方占領地域担

当大臣になりますが、ウクライナ総督に長年の政敵が座り、実働部隊のほとんど

はヒムラーが握っていたために、占領政策上の影響力は限られていました。



(以下24話)



 第9話で取り上げたように、この世界ではヘルマン・ゲーリング戦車師団は編成

されません。代わりに空挺突撃連隊を統合する形でヘルマン・ゲーリング空挺師団

が編成されています。

 ライヒスバーンでも、ドイツ軍そのものと同様に、志願したソビエト軍捕虜が

多数働いていました。

 川幅によって橋を架ける所要時間は違ってきますが、南方軍集団所属の独立工

兵連隊が夜間に砲撃下で作業し、11時間で400メートルの仮設橋をドニエプル川に

架けた記録がありますので、この作品では仮設橋を架けるのに半日かかると考え

ています。また、ドイツ軍は空挺作戦を夜間に行ったことがほとんどありません

ので、早朝から作戦が始まったことにしました。

 1個戦車中隊の定数は時期と車種により様々です。ここでは、新型戦車なので

定数は少な目であったと想定しました。各4両の3個小隊に、中隊長車と副官車で

す。

 ルーマニアは実際にはHe115よりさらに旧式であったり、小型であったりする機

体を受け取っています。ここでもルーマニア軍は史実より少し(ほんの少しです

が)優遇されています。





第25話「星が要るもの」



 ドルンベルガー大佐はいらいらしていたし、そわそわしてもいたが、何よりも

興奮していた。ヒトラーに会おうとする人間は皆そうなのかもしれないが、ブラ

ウンにはそんなドルンベルガーの姿に思わず苦笑を漏らした。

 1942年10月、ついにA-4型ロケットは発射実験に成功した。そのフィルムを持っ

て、陸軍戦略ロケット研究所長ドルンベルガー大佐と、主任研究者ブラウンが、

予算獲得のためのプレゼンテーションに総統官邸を訪れていた。

 液体酸素とエチルアルコールを反応させたA-4型ロケットがもくもくと推進剤を

吐き出し、スクリーンから飛び出さんばかりに飛翔して行く様を見せられたヒト

ラーとシュペーアは、部屋が明るくなっても、しばらく一言も発しなかった。や

がてヒトラーが無言で拍手を始め、列席者もそれにならった。

「素晴らしい。素晴らしいが」ヒトラーはドルンベルガーに言った。「費用と効

果の関係が、今のところ不釣り合いだ」ドルンベルガーの顔から愛想笑いが消え

た。ヒトラーの横で、シュペーアがどこか気の毒そうな顔でやりとりを見ている。

その表情を見たブラウンは、ヒトラーの結論がプレゼンテーション前に下されて

いたことを感じ取った。シュペーアは今の映画に強く感銘を受けたのだが、ヒト

ラーが事前に下していた決断もまた知っていたのである。

 なぜヒトラーは、そんなことをしたのだろう? ブラウンが考えている間に、

ヒトラーはドルンベルガーの労をねぎらって握手をし、がたがたと周囲で椅子か

ら立ち上がる音がした。ブラウンも首を振って立ち上がり、ドアに歩み寄ったと

き、後ろから肩を叩かれた。

 シュペーアであった。「ちょっと来てくれないか」シュペーアは続いてドルン

ベルガーにも声をかけると、別の小さな部屋へとふたりを案内した。

 先にドアをくぐったドルンベルガーが、突然直立するとかかとを打ちあわせて

右手を上げたので、ブラウンはドルンベルガーにぶつかりそうになった。

 ブラウンはドルンベルガーの背中越しに、右手を軽く上げて答礼するヒトラー

の姿を見た。





「普通の兵器としては、残念ながら君たちの労作は今次の戦争では高くつき過ぎ

ると思う」ヒトラーは言った。「V-2、いやA-4型ロケットを1基作る予算で、4号

戦車をほぼ1台作ることが出来る。ペーネミュンデ試験場と関連施設の建設にか

かった、4号戦車4600台分の予算を別にしても、だ」

 ドルンベルガーは、人間が運命を受け入れるときに見せる、すがすがしい表情

をしていた。ドルンベルガーの履歴書には、ここのところ20年分ほど、ロケット

関係のこと以外は書く事項がない。

 ブラウンは、この困難を乗り切る方法をせわしく考え続けていた。「今、今次

の戦争では、とおっしゃいましたね、総統」「そうだ。この兵器が10年後に非常

に重要なものとなることは疑いない」ヒトラーの口調があまりに断定的なのに、

ブラウンの方が当惑した。

「さて、そこでだ。ドイツを向こうに回した、アドルフ・ヒトラーの陰謀に、加

わる気はないか」ヒトラーは声を潜めて言った。





 ペーネミュンデ試験場に戻ったブラウンは、スタッフたちにヒトラーとの会談

の内容を伝えた。

「弾頭部を738キロから、100キロにするだと」飛行力学担当のガイスラーが吠え

た。

「星であれば、良い、というのがスポンサーのご注文だ」ブラウンは定食屋の注

文を読み上げるように言った。

「星か」誘導担当のホイサーマンが言った。「久しく忘れていた言葉だ」

「V-2号のウェットマス(推進剤込みの発射時質量)は13トンを超えるのだ。そ

の程度では第1宇宙速度を達成できる見込みはない。推進剤と燃焼時間を増せば燃

焼室の素材の耐熱性能が足かせとなりそうだし、そう、思い切って…」ガイスラー

は黙り込んで考え続けた。

「総統は本気なのか」ホイサーマンが疑わしげに尋ねた。「試されているのでは

あるまいな」

 ここのスタッフたちの多くは、宇宙旅行を志している。ゆるぎなく戦争への努

力を続けているといえば嘘になる。そのことは、自分たちが一番良く知っていた。

 ブラウンが何か言いかけたとき、話し込んでいた研究室の扉が開いて、若いス

タッフが顔を覗かせた。「所長がお戻りになりました」ドルンベルガーは資材調

達上の細かい点をシュペーアのスタッフと話し合うため、ベルリンに1日余計に

残っていたのである。

 3人が扉を開けると、ちょうどドルンベルガーが廊下の向こうからやってくると

ころであった。その姿を見た3人は、申し合わせたように立ち尽くした。

「星がない」ホイサーマンがつぶやいた。「よい印だ。これでも総統を疑うか」

ブラウンが早口でささやいた。そのふたりの背中を、ガイスラーがぽんと叩いた。

「ともかく、お祝いを言わなければいかんな」

 3人は、真新しい制服を着た、照れくさそうなドルンベルガーに歩み寄った。

昨日までドルンベルガーの肩にあったふたつの銀の星は消え、代わりに金の房飾

りがその肩を覆っている。

 ドルンベルガーは、少将になった。





 ブラウンたちの作業は驚くべき速さで進んだ。開発期間を短縮するため、ブラ

ウンたちはV-2号から弾頭と姿勢制御装置を取り除いたものを2段目とする2段ロケッ

トを開発することにして、1段目の設計、次いで試作に取り掛かった。

 新しい1段目の燃焼試験が成功したのは、1942年12月に入ったころであった。

 燃焼試験が終わるといよいよ発射実験である。ヒトラーは発射に立ち会うよう

ドルンベルガーから誘われたが、「見ると負ける」と奇妙なことをつぶやいて

断った。

 発射試験の日、ヒトラーは空軍首脳との協議に臨んでいた。有り体に言えば、

陳情を定期的に受ける日であった。

「東部戦線での稼働率低下の件だが、ソビエト軍の捕虜に尋ねることは出来ない

のかね」ヒトラーは言った。「同じ低温下でソビエト空軍が出動してくるとすれ

ば、彼らは何か手段を持っているはずだ。そう、エンジンを直接火であぶるとか、

凍結したオイルをのみでかき取るとか」ヒトラーが手振りをして見せたので、空

軍のスタッフたちは笑った。

 機材の調達は順調に進んでおり、空軍の作戦機数はすでに1942年春の水準に復

し、同盟国空軍へ旧式機を譲渡しつつ拡大を図れる状況であった。パイロットの

供給状況はもっと悪く、訓練期間の短縮が始まっていた。ヒトラーは、訓練用機

材と教官を決して戦闘任務に転用しないよう念を押した。

 ソビエト軍は12月に入って活発に攻勢を仕掛け、そのつど撃退されていた。ソ

ビエト軍のそれには遠く及ばないものの、東部戦線全体で、ドイツ軍にも緩慢だ

が止まることのない出血が続いていた。

「さて、来年は新しい司令官の下での会議となろうが、これまで通り頑張って欲

しい」ヒトラーは会議を締めくくった。シュペール元帥は心労と肥満から循環器

系疾患を起こし、引退を願い出ていたので、1943年1月1日付でケッセルリンク元

帥と空軍総司令官を交代することが内定していた。

 会議が終わるのを待っていたらしく、OKWの連絡武官が紙片を持って会議室に入っ

てきた。紙片をちらと見たヒトラーは、肩をすくめて何も言わなかった。

 発射は、失敗した。





 ホイサーマンは、ミーティングの結果を反芻しながら、廊下を歩いていた。

第1段ロケットの燃焼が続いているうちに、ロケットの軌道がふらついて地上に落

下してしまったので、第2段ロケットの点火システムを直接検証することが出来な

かった。おそらく第1段ロケットの固定フィンの取付角に工作上の問題があったか、

でなければ十分な加速度を得ないうちにアレスタを解除してしまったか、どちら

かであろう。いや、燃焼室の出口をもう少し伸ばして、噴射の方向を絞った方が

いいのかもしれない。

 ふと気がつくと、廊下の向こうから工場保安隊の兵士が数人、ひとりの外国人

労働者を引き立てて来た。保安隊の顔見知りの下士官が混じっていて、ホイサー

マンに声をかけた。「第2段ロケットの配線を切ろうとしているところを捕まえま

した。次はきっと成功しますよ」

 労働者はポーランド語でわめいた。「悪魔の武器を作っている小悪魔め」

 ホイサーマンは「あれは武器じゃない」と言い返そうとして、思いとどまった。

あからさまにそれを口に出すことは出来ないし、言っても信じてもらえまい。

 無言で労働者の背中を見送ったホイサーマンは、誰にも聞こえないように小さ

くつぶやいた。「無駄死にしやがって」





 ペーネミュンデに付属する生産施設では、次々にA-4型ロケットが組み立てられ

ていた。これを少しずつ手直ししながら、実験に使って行くのである。第1段ロケッ

トはまだまだメカとしての成熟度が低かったが、それでも前と同じ物を作るので

あれば、2週間ほどで次が出来上がってきた。

 ブラウンは、ヒトラーに直接電話をかけた。

「今回はうまく行くのかね」「うまくいく予定です」「たいした自信だ」ヒトラー

はからかった。

「問題点の洗い出しは予想以上に進んでいます。実際のところ、目標にミサイル

を命中させるよりも、人工衛星を打ち上げる制御の方が、ずっと簡単なのです」

「ほう、そうなのか」「円軌道でも楕円軌道でも、とにかく衛星でさえあればい

い、というご注文であれば、ですが」ヒトラーは苦笑した。ブラウンは話を続け

た。「2段目のA-4型ロケットは十分に試験されていますから」ブラウンは多少の

誇張があることを気取られないよう注意した。ヒトラーはそれに気がついたが黙っ

ていた。「空中での点火で問題がなければ、次の実験で成功すると思います。で

すから以前通り…」

 ブラウンは、ヒトラーにペーネミュンデを訪問させる手はずを整えた。





 ブラウンは、型通りの視察を終えると、主だった技術者とヒトラーを質素な会

議室に集めた。盗聴機が仕掛けてあることは十分考えられるから、ヒトラーも技

術者たちも、時折他愛のない質問をして、科学者と総統のざっくばらんな歓談の

体裁を整えていた。

 ヒトラーはかばんから布切れを取り出すと、ブラウンに渡した。その派手な布

地はエヴァと女性秘書たちに作ってもらったもので、オリジナルとは似ても似つ

かない。ましてやオリジナルを知らないブラウンたちには、その布の意味すると

ころは分からない。

 ブラウンたちは、コーティングした銅板を引っかいて、エッチングプレートを

作る準備をしていた。衛星は地上から観測しやすいよう、肉薄の金属球の形をし

ているから、これらを中に入れるのである。

 プレートには、すでにブラウンの手になる文章が刻まれていた。

「我々は人類史上初めて、その活動の証しを大気圏外に印す機会に恵まれたこと

を光栄に思う。この衛星は始まりであって終わりではない。我々は我々の企てが、

月世界旅行につながる第一歩であることを信じているが、その月世界旅行もまた、

人類が宇宙へ乗り出していく終わりなき企ての中では、ほんの小さな里程標に過

ぎない」

 ブラウンは言った。「ドクトル・オーベルト、やはりあなたが最初に署名すべ

きではないかと思う」年長の技術者が遠慮がちに首を振った。周囲の若い技術者

たちが口々にブラウンに同意したので、人望のある人物であることがヒトラーに

も分かった。しかしオーベルトは署名をしようとしない。

 ヒトラーはその光景を見ていて、ひらめくものがあった。「もしこのことが君

たちの気を楽にするのであれば言うが」ヒトラーは言った。「衛星を打ち上げる

のは人類であって、ドイツではない」

「私はドイツ市民権を持っていますが、ジーベンビュルガー(ハンガリー領トラ

ンシルバニア出身者)です、総統」オーベルトは穏やかに言った。「では人類の

ひとりとして、署名させて頂きます」室内に、ほっとした空気が流れた。





 今日は打ち上げの日である。成功した場合のみ後から録音でラジオ放送を流す

よう、ペーネミュンデに宣伝省からアナウンサーが来ていた。管制室では誰も彼

もにこやかだが、口数が少ない。静かな緊張感が、無駄口を叩かせないのである。

 秒読みが始まった。すべての視線が窓の外へと伸びる。「ドライ、ツヴァイ、

アインス、ヌル」

 ロケットエンジンが点火した瞬間、白い噴射ガスがあたりを満たした。

 一呼吸置いて、最初はゆっくりと、そして次第に力強く、ロケットはほぼ真上

に向かって飛び立って行く。休みなく推進剤がノズルから噴き出し、やがてそれ

が白い帯となってロケットに続くようになる。

 ブラウンも、技術者たちも、じっとその行方を見守る。歓声はない。何が問題

なのか、スタッフたちは知っている。

 すでにロケット本体は点のようになって細部が見えない。白い筋だけが高く高

く上っていく。その筋がふたつに割れ、半秒遅れて衝撃音が響いてくる。歓声と

拍手が起こり、技術者たちが抱き合う。無事第2段ロケットが点火したのである。

 それを呆然と見送っていたアナウンサーは、自分がすっかり実況放送を忘れて

いたことに気づいた。





「我々は今日、星をひとつ作った。それが今、我々が最も必要としているものだ

からである」ヒトラーは演説をこう切り出した。

「このロケット技術が、平和的な目的を持って開発されたと私が言っても、誰も

信じないであろう。そう、それは事実ではない。我々はこの技術をもって、様々

な目標を攻撃できると信じている」勝利万歳、の掛け声をかけるものがいて、し

ばらく観衆は騒然となったが、やがてヒトラーの身振りに制された。「しかしな

がら、同じ技術を持って、多くの民族に属する、多くの人々の夢を実現すること

も出来るのである。人の目は近くを見ながら、遠い地平線の彼方まで視野に収め

ている」観衆には熱狂した様子はなかった。

「星からは地球の様子がどのように見えるか、まだ見たものはいない。きっと海

の色をした、青く美しい星ではないかと思う。我々がそれを目にするときには、

いまドイツの若者たちと銃を向け合っている若者たちと、一緒にその喜びを分か

ち合うことを願っている。私は世界のすべての指導者が、これを機会として、星

の目から見た新たな視点によって状況を検討するよう、切に求めるものである」

 演説は終わった。あまりにも短い演説であった。観衆は戸惑った。やがて、拍

手が起こった。歓呼するにはふさわしくない内容であった。

「諸君」ヒトラーがまた口を開いた。演説草稿にはないアドリブである。拍手は

静まった。「私は諸君への約束通り、諸君の家族をクリスマスまでに諸君のもと

に帰すことが出来なかった。私は諸君と諸君の家族に、まだ戦えと言わねばなら

ん。罪は私にある。だが今しばらく、私の下で、戦争に耐えて欲しい」

 無言の拍手が起こった。掛け声がいくつかかかったが、唱和するものがいなかっ

た。録音室では、ディレクターが蓄音機のスイッチを入れ、足りない拍手と歓声

を補った。





 ロンドン駐在のラジオ局特派員エド・マローは、アメリカへの放送原稿を読み

ながら、ディレクターに言った。「ボブ、人手不足なのは分かっているが、新し

いタイピストを雇った方がいいんじゃないか」「どうしてだ」「衛星の名前みた

いな大事な単語をうち間違えるようじゃ困るよ」

「3人目だ」ボブはにやっと笑ってエド・マローに3本指を突き出した。

「そいつを指摘したのは、おまえさんで3人目だ。ひとり目は俺だがな。マドリー

ド支局に電報を打って、フェルキッシャー・ベオバハター(NSDAP機関紙)を買い

に行かせた。最後にnがつく。間違いない」

「ティーゲルン? なんだそりゃ」

「複数形だ」ボブは言った。「なぜかは聞くな。俺だって知りたいくらいだ」





 総統官邸の屋上で、ヒトラーは星を見ていた。護衛の親衛隊員がはらはらと、

周囲のビルの窓に目を配っている。狙撃者がいたら大変である。

 この星空のどこかに、ヒトラーの打ち上げた衛星がいる。エッチングプレート

とペナントを載せた衛星が。

「彗星なんか待っとられへんから、衛星打ち上げたったからな。毎年優勝せいよ」

ヒトラーはつぶやくと、階段に通じるドアをくぐった。

 日本人は捨てても、阪神ファンは捨てられない、おっちゃんがここにいる。





<ヒストリカル・ノート>

 1942年10月、A-4型ロケット(のちV-2号と命名)は発射実験に成功しました。

V-2号は放物線軌道を描いて遠くの目標に命中させるため、フィンによる姿勢制御

という技術的な難関を抱えており、1943年7月から8月にかけてペーネミュンデが

連合軍の爆撃を受けてスタッフや熟練工が死傷したこともあって、1943年中には

ミサイルとしての実用大量配備は実現しませんでした。この間1943年5月、ドルン

ベルガーは少将に昇進しています。

 ペーネミュンデが爆撃を受けた後、ドイツ西部のノルトハウゼンにあった強制

収容所に隣接した地下工場が作られ、地下工場労働者の2/3は強制収容所の囚人で

した。囚人は東欧諸国民やドイツの政治犯など雑多な構成でした。当時一般に、

工場が(囚人でない)外国人を雇うことは自由でしたが、雇う場合には一種の税

を収めねばならず、当人たちにはドイツ人労働者より低い賃金を払うことが義務

づけられていました。特にポーランドからは意図的に労働者がドイツに送られま

した。

 ヒトラーが示唆しているエンジンの乱暴な暖め方は、実際にソビエト空軍で取

られていました。ドイツ空軍は1942年の冬から、自分たちもこの方法を取り入れ

ました。

 オーベルトはどちらかというと理論家で、彼の宇宙ロケットに関する理論書は

当時宇宙を目指す者のバイブルでした。1940年にドイツ市民権を獲得すると、彼

は1941年から1943年までブラウンの下でアドバイザーをつとめました。戦後は一

時アメリカに渡って、再びブラウンの下でロケット開発に協力した時期もありま

すが、結局ドイツに戻って講義と著述に余生を費やしました。





第26話「ザクラと夏とふたりの将軍」



 スターリンは地図を眺めていた。ソビエト西部の地図である。広軌と標準軌の転

換状況や、当地の政情について、諜報員や秘密警察が調べてきた情報がまとめて書

き込んである。スターリンはこの地図を誰にも見せたことがなかった。スターリン

が自ら描き込んで作ったものである。独裁国家では、情報を共有することはライバ

ルを育成することに他ならないのである。

 ヒトラーは3本の幹線鉄道によって3つの軍集団を養っている。いまいましいが、

ソビエトの穀倉地帯であり酪農地帯でもある地域がドイツの手に落ちたことによっ

て、ドイツ軍の食糧事情はかなり好転しているに違いない。ベラルーシとウクライ

ナの親独政権は決して住民から好かれてはいないが、直ちに転覆する様子はないし、

ドイツ軍は鉄道周辺の要地を警備するだけで、後方にほとんど兵力を残していない。

 しかしドイツも、ソビエトの奥深く攻め入ったことによって、補給上の限界に来

ていると思われる。補給システムはそれ自身が石炭や石油や水を食うので、補給線

が伸びることは最前線に送れる物資の減少を意味した。

 そのことは様々な兆候が示していた。ドイツ軍の前線での弾薬備蓄は積み上がっ

ておらず、消費量に補給が追いついていないし、折角動員したハンガリー軍やルー

マニア軍が自国の国境付近で待機を余儀なくされている。それはドイツの歩兵師団

群も同様である。冬の間に損害を受けた師団が本国に呼び返され、新兵を加えて再

建されたまま、かなりの部分がドイツかフランスに展開している。

 ドイツは従来のものと重複しない、新しい鉄道幹線を確保しようと複線化工事を

進めているが、完成はどう考えても1943年の秋以降になるはずである。そのころに

は、イギリスとアメリカがペルシアで進めている港湾設備と鉄道の能力拡張工事が

終わり、順調に連合国の物資がソビエトに流れ込んでくるはずである。

 ただ、イギリスとアメリカは、ソビエトが戦争を継続していくという意志と能力

を疑っているようにも思われる。とすれば、春には是が非でも攻勢をかけて成果を

アピールしなければならない。スターリンは地図から目を離すと、考え込んだ。

 ドイツ軍が新しい鉄道幹線を丸ごと隠し持っているのでない限り、それは見込み

のある作戦のように思われた。





 デーニッツは悲壮な気分でヒトラーに会っていたが、その表情はいつも通りであ

るようにヒトラーには思えた。デーニッツは上司に対して、いつも訴えるものをひ

とつやふたつ持っているタイプの人物であったとも言える。

 その上申内容は、確かに深刻なものであった。

「航空機による損害が急増しております。その大半は、アメリカが建造した護衛空

母の艦載機によるものと推定されます」デーニッツは、Uボートに対空兵装を施す

試みが成果を挙げていない顛末を、事細かに語った。

 米英は輸送船団の護衛に小型空母を投入してきており、艦上戦闘機がドイツ高海

航空艦隊の大型哨戒機を大西洋から駆逐してしまったために、Uボートの攻撃効率

は落ちていた。さらにUボートは航空機からの攻撃を恐れて昼間に浮上することが

難しくなり、充電と目標発見に支障をきたしていた。地中海方面の情勢がドイツに

有利なまま膠着し、ポルトガルがドイツの脅威を感じる状況が続いているため、ポ

ルトガル領の島々を連合軍が基地として使うことは出来なかったが、続続と完成す

る護衛空母群はUボートを狩り立て、追いつめていた。

「このままでは従来通りの戦果は期待できません。犠牲を甘受しつつ敵の資源を引

き付けるための戦闘を続けることをお命じになるか、あるいは思いきった作戦の縮

小を行うことが適切です、総統」デーニッツは言い切った。

「では、作戦を縮小しよう」ヒトラーはあっさりと言った。「連合国に対する和平

の呼びかけの一環として、無制限潜水艦作戦の一方的な中止を通告する。それでよ

いのだな」今度はデーニッツが言葉を失って狼狽した。

「海軍軍人は暇にはならんぞ。春になるとバルト海が割れて、幻の鉄道が浮かび上

がるのだ」ヒトラーは説明を始めた。





 1943年5月を待って、独ソ両軍が動いた。ソビエト軍は中央で、ドイツ軍は南で。

 ソビエト軍は春の泥濘の間に作り溜めた戦車軍団を先頭に、スモレンスクから突

破を試みた。

 ドイツ軍はようやく長砲身75ミリ砲の弾薬不足を解消しており、ソビエト軍に大

きな損害を与えつつ後退した。ソビエト軍の重砲兵が攻撃開始位置から前進を始め

たタイミングを見計らって、その突出をとがめるべくモーデル大将の戦車軍団がソ

ビエト軍の背後を突いた。ソビエト軍の先鋒は包囲され、戦線に空いた穴からモー

デル大将とガイル大将の戦車軍団が入り込み、南北に傷口を広げにかかった。

 南方では、とうとう戦車軍団をせしめたロンメル中将がキエフ北方でドニエプル

川を渡り、ドニエプル川に沿って戦線が弓なりに突出した部分を包囲にかかる…は

ずが、真っ直ぐに東進し、ハリコフを目指していた。マンシュタイン上級大将は短

くため息を吐いて、フーベ大将の戦車軍団に後方の穴を埋めさせた。

 ドイツ戦車師団は、この間ほとんど増設されておらず、第1から第20までのほとん

どの戦車師団が3号戦車・4号戦車を合計200両以上保有していた。スモレンスクでは

戦車対戦車の激しい戦闘が展開されたが、経験の豊かさと総合的なチームワークに

勝るドイツ軍が、大きな損害を出しつつ戦場を支配した。

 ソビエトの戦線は中央でへこみ、南方で崩壊した。ドニエプル屈曲部をハリコフ

まで切り取ったドイツ軍の先鋒は、6月末には黒海沿岸のロストフまで迫った。ドイ

ツ軍は補給物資を激しく消耗し、攻勢は止まるかと思われた。





 短い夏を迎えたバルト海には、ドイツの上陸用舟艇が群れを成していた。キール

から、ロストクから、ダンチヒ(現グダニスク)から、補給物資を積んでラトビア

のリガを訪れ、また帰っていくのである。港湾能力を超える分の物資は、砂浜に放

置された。

 イギリス上陸作戦のためにドイツが急造した舟艇は、いまや海を越える補給路を

維持するために使われていた。リガからモスクワまでは戦前からの鉄道が一直線に

伸びている。ドイツ鉄道工兵隊は重点的にこの路線の整備を進めていた。

 ドニエプル川の鉄道橋がことごとく落とされているため、南方軍集団の進撃はハ

リコフ・ロストフで止まり、北方のクルスク方面へ進出することもかなわなくなっ

た。しかし北方軍集団と中央軍集団は生気を取り戻し、鉄道の分岐点ヴェリキエ・

ルーキを越えて、レニングラードとモスクワの中間地点とも言うべきデミヤンスク

に迫っていた。

 もはやドイツの攻勢目標は隠しようもなく、ソビエト軍の反撃は必至であった。

すべての作戦は、モスクワの攻防を意識して立てられていた。





 今日のヒトラーの夕食には、カナリス大将・国防軍情報部長、ハルダー元帥・陸

軍総司令官、リッベントロップ外務大臣が呼ばれていた。

 カナリスはいまやシュペーアと共に、おっちゃんの秘密を打ち明けられ、ヒトラー

一味に加わっていた。ヒトラーは、ハルダーにはあえてそうしなかった。ハルダー

が軍人としてヒトラーに忠実である限り、それで良いと思ったのである。誰でも信

じてくれるような話でもない。

「私は思うのですが、総統」リッベントロップは多弁であった。「イギリス上陸作

戦は、あのような多数の輸送船舶を建造するための、欺瞞であったのでしょうか」

 ヒトラーは笑った。「それはまあ、言い過ぎだな。私としては、あれでイギリス

が講和を申し出てくれれば、そのほうがよかった。だが、現在のような船舶の流用

を、考えていなかったわけではない」リッペントロップは感心したような顔をして

見せ、ハルダーはにこりともせず、カナリスは口を歪めて笑った。

「実のところ、現在の東部戦線の状況もまた、西の状況と結びついている。ソビエ

トが単独講和に応じた場合も、アメリカとイギリスが講和に応じた場合も、どちら

にしてもドイツの戦争は終わるであろう。ソビエトの継戦能力を疑う材料が積み上

がれば、ソビエトの崩壊そのものに至らずとも、講和が成立しうるのだ」ボルマン

官房長は一言も発さず、テーブルの隅でヒトラーの発言を筆記している。すべてを

知っているということそのものが、ボルマンの権力基盤なのである。

 カナリスも、じっとヒトラーの言葉を聞いていた。米英とひそかに接触し、講和

の糸口を探ることを、カナリスはヒトラーから依頼されていた。

「従って、政治的な目標と軍事的な目標は、いまや一致している。ソビエト軍の戦

闘力を減殺することが、政治的にも最も望ましい。首都を占領されることはソビエ

ト政府にとって大きな失態となるが、ソビエト軍の主力を効果的に叩く別の方法が

あれば、モスクワに拘る必要はないのだ」

 ハルダーは、慎重に口を開いた。「東部戦線の南方については、いかがお考えで

しょうか」「現在の戦線を維持することが望ましいが、ドニエプル川までは後退し

ても良い。ソビエト軍の戦力を分散させるためのオトリとして、有利な取引の機会

があれば高くソビエトに売り付けてやることだ」ヒトラーは何かを思い出したよう

であった。



「さて、ロンメルをどう処遇したものかな、元帥」ハルダーは答えた。「ベルリン

で柏葉剣付騎士十字章を授与して、そのままフランスかイタリアで勤務させるのは

如何でしょう」「それは私も考えたが」ヒトラーは言いかけて黙った。

 親衛隊の「ダスライヒ」「トーテンコープ」両師団を含め、ドイツには22個戦車

師団があり、春から初夏にかけての激しい戦闘によって5個師団が攻撃任務に適さな

い状態と判断されていたが、そのうち2個はロンメルの無理な前進によるものであっ

た。ハリコフは占領したものの、南方軍集団がちびちびと使って行くべき一夏分の

補給物資を1個戦車軍団で使い切ってしまったのも、また事実であった。マンシュタ

インはあからさまにロンメルの交代を具申してきていた。

「この手の悪漢をドイツが必要とするときがあるとすれば、今がまさにそれだ」ヒ

トラーは言った。「誰かがモスクワの向こう側にたどり着かねばならん」

「ロンメルに新しい軍団を与えるということですか」ハルダーの問いからは、何の

感情も伝わってこなかった。「新しい軍団と、そう、アドルフ・ヒトラー連隊を与

えよう。モーデルにはグロスドイッチュランド連隊を与えたまえ。北と南から、モ

スクワを包囲する輪を閉じさせるのだ。ああ、もちろん、最終的に決めるのは元帥

だ。もっと無茶な前進を好む軍団長を元帥が知っているなら、その人物でも良い」

 ハルダーはもはや苦笑するしかなかった。





 点火されたふたつのエンジンは、炎交じりの噴煙をまっすぐ後方に吹き出した。

リビッシュ博士のロケット航空機の有人飛行実験が中断されてから、このエンジン

は人類が空を飛ぶための、最も贅沢な装置である。古城に見せかけた管制室から、

2本の長いアンテナを通じて、秒読みの声がパイロットに伝えられる。

「ドライ、ツヴァイ、アインス、ヌル…発射!」ライン川にほど近い秘密飛行場の

長いカタパルトから、次々にHe280Bジェット戦闘機が射出され、やがて高空に白い

飛行機雲が平行に何本も走った。北フランス上空で、アメリカの重爆撃機を迎撃す

るのである。

 高空を飛来する戦略爆撃機の迎撃では、戦闘機の上昇にかかる時間が重要なファ

クターであった。警報が出てから、間に合ううちに高度10000メートルを超えるとこ

ろまで上がらなければならない。その点、ジェット戦闘機の性能は隔絶していた。

 しかしドイツの勢力圏では各種の希少金属が不足しており、ジェットエンジンの

素材となる耐熱合金の生産に制約が多い。これにジェットエンジン技術の未熟さそ

のものが加わって、エンジンの耐用時間はまだ10時間に達しない。1回の出撃でエ

ンジン交換を余儀なくされることすらある。ドイツと連合軍のマクロ的なせめぎあ

いの中では、He280部隊の役割はデモンストレーション部隊の域を越えるものでは

ない。

 しかし空を飛ぶものにとって、機関銃弾を吐くものは、ひとしく脅威であること

に変わりはなかった。



 ジェット戦闘機隊長のホフマン大尉は、あまり下方視界が良いとは言えないコク

ピットで精一杯首を伸ばし、味方のレシプロ戦闘機隊がゆっくりと中空を飛んでい

るのを確認した。ジェット戦闘機は速いだけに小回りが利かず、エンジン出力を急

に上げたり下げたりすると故障する危険があった。だから爆撃機には強いが、敵戦

闘機に対しては意外にもろい。

 昨年のイギリス上陸作戦で飛行場と機材と士気に大きな痛手を受けた連合国空軍

は、公平に見て、かなり戦力を回復してきていた。ドイツ軍の主力は東部戦線に取

られ、ここ数ヶ月のパワーバランスはゆっくりとドイツ軍に不利になっている。と

はいえ、ヨーロッパ大陸の上空では、まだドイツ空軍が主導権を握っていた。

 来た。アメリカ空軍のB17爆撃機が約100機。その性質上、ジェット戦闘機隊は危

急のときだけ出撃を命じられることになっていたが、呼ばれるに値する数である。

隊長は短くレシプロ戦闘機隊の隊長と交信すると、B17に正面から攻撃を挑むべく、

さらに高度を上げた。別に騎士道に則って挑戦しているわけではない。爆撃機の正

面は操縦席を置く都合上、銃座が置きにくく、射撃の死角が出来るのである。

 ほんの少し下で、戦闘機同士の空戦が始まったらしい。最近は両軍が互いに護衛

の方法を学びあって、まず半数の戦闘機が敵戦闘機のいそうな飛行場を襲撃して挑

戦し、そののちに残りの戦闘機に護衛された爆撃隊が続くというのが一般的な方法

となっていた。ドイツ軍にもレーダー網が整備されてきて、敵戦闘機が大挙してドー

バー海峡を渡って来ると、すぐにどこかのレーダー局がそれを捉えて、各戦闘機隊

に警報と出撃命令が出る。

 ぐんぐん先頭のB17の姿が大きくなってくる。すれ違うのはほんの刹那のことゆ

え、射撃のチャンスもまた一瞬である。ホフマンは引き金を引いた。2門の30ミリ機

関砲が機体全体に振動を伝える。もう少しで衝突するというとき、隊長は機首を引

き起こした。B17の機体が傾き、数秒して禍禍しい風切り音が聞こえてきた。すれ

違ったときの相対速度はマッハ1を超えるから、He280が上昇角を大きくして再び攻

撃位置につこうとしたとき、やっと墜落しようとするB17の振動音と摩擦音が耳に入っ

てきたのである。100機の緊密な編隊ともなると、そのマッハ1でも行き過ぎるのに

数十秒かかる。その間、爆撃機隊の上部銃座から撃ち放題に撃たれることは、どう

することもできない。

 今日の戦闘隊の出撃機数は10機である。定数は36機だが、この出撃可能機数は最

近の平均的な数字である。埋まっていない定数があり、他の機体のために部品を取っ

てしまって「長期修理中」扱いになっている機体があり、さらにエンジン交換作業

中の機体があると、そのような歩留まりになるのである。「バウケ、バウケ」撃墜

を知らせる暗号コードが通信機から次々に入ってくる。5機は落ちたであろう。緊急

連絡はひとつも入ってこない。幸運である。

 追いすがってもう一撃加えるだけの残弾はある。ホフマンは編隊を整え、爆撃機

隊を追わせた。2機のHe280が何を慌てたものか、攻撃後高度を逆に下げてしまい、

編隊から離れてしまった。ホフマンは彼らに帰投を命じた。現在の戦況では、ジェッ

ト戦闘機は勝利を確信できる状況でのみ戦うべきである。これは政治的な配慮から

出た指示であったが、ホフマンは部下の命を守るために、この指示をしばしば濫用

した。ホフマンは多くのドイツ軍人と同じように、この戦争が次のクリスマスまで

には終わると思っていた。

 再び接近。射撃。離脱。決まりきった手続きによって、3機のB17の運命が決定さ

れた。もちろんこの他にも、いろいろなことが起こったであろうが、ホフマンには

知ることが出来ない。B17のクルーの中で最も死傷率が高いのは、尾部銃座の射手で

あると、ホフマンは情報担当士官から聞いたことがある。

 護衛戦闘機が追いすがってきた。アメリカ空軍のP38戦闘機である。双胴・双発の

戦闘機で航続距離が長いが、ドイツ国境に程近いこの空域まで来れば、もう燃料は

ぎりぎりであろう。ホフマンは戦域を離脱することを命じた。He280は戦闘機と相打

ちして割の合う戦闘機ではない。

 通信機から悲鳴が聞こえてきた。先ほど帰した2機が、まだ敵戦闘機が上空にいる

のにうかつにも着陸しようとして、敵戦闘機に追われたのである。ジェット戦闘機

は高速なために、離着陸のさい直線コースを長い間飛行する必要があり、敵戦闘機

にそこを狙われると危険であった。

 P38は1機しかいない。おそらく逆上して帰還を諦めたのであろう。ホフマンは精

一杯の加速をかけて、戦闘機を追った。

 後方斜め上からの1連射で、P38はちぎれ飛んだ。機首を引き起こそうとしたホフ

マンは、右のエンジンが止まっているのに気づいた。さっきの急加速のせいであろ

う。高度が低すぎて脱出も出来ない。

 ホフマンは機首をほぼ水平に戻したが、それが精一杯で、そのまま地面に激突し

た。何も考える暇はなかった。





 トルコの首都アンカラの夏は暑い。日陰とは言え、風通しの良くない高い壁の内

側で午後のお茶を飲むのは、パーペンの好みではなかった。しかし今日ばかりはそ

うも言ってはいられない。

 不思議なお茶会であった。パーペンとふたりの客は名を名乗らず、名を尋ねない。

それでいて相手か誰であるか、ちゃんと互いに分かっている。

 物価のこと、子供の教育のこと、そして天候のこと。世間話はいつまで経っても

終わらなかった。互いに、本題に入ることをためらっているのである。最初にしび

れを切らせた人物の英語には、アメリカなまりがあった。

「私どもを今日お招き頂いたのは大変うれしいことですが、何かご用件がおありな

のだと思っておりました」

「さよう、私の雇い主は私に、平和のための提案は何でも受けるように、と伝えて

参りました。何でも、です」

「それはご丁寧なことです。あなたの雇い主はラジオを使って、そのような内容を

毎週伝えておられるのに」アメリカなまりの男は言った。

「重要なのは、お返事を頂くことです。私どもにも、ラジオではお話できないよう

な用件もありますのでな」パーペンは動じなかった。

「その提案には、例えば、ドイツの国境を1933年当時のものに戻すようなことも、

含まれるのですかな」キングズ・イングリッシュを話す第三の男が、丁寧ながら明

確に言い放った。

「私の雇い主は、それを受け止めて、誠実に回答するでしょう」パーペンは答えた。

「あなたの、その、雇い主は、あなたにどのような原案も示してはおられない。そ

うですな」アメリカなまりの男が言った。パーペンは微笑して答えなかった。

「私の友人がローマ法王庁に勤めておりますが、ローマ法王猊下が和平交渉を仲介

なさる動きがあるそうです。それもあなたの雇い主が望まれたがゆえでしょうか」

キングズ・イングリッシュの男が言った。パーペンは答えた。「法王猊下が平和に

ついてお考えになるのは、いつものことでしょう。誰に指図される必要もないこと

です」

「あなたの受けた指示と同じものを、すべての、その、あなたの同僚は受けている

のでしょうか。それとも、あなたの経歴から、あなたが特に選ばれているのでしょ

うか」「私には分かりかねますな」パーペンはアメリカなまりの男の質問を受け流

した。実際には、ヒトラーは中立国に駐在するすべての大使に、ほぼ同じような指

示を外務省経由で出していて、パーペンは旧知の友人からそのことを聞かされてい

た。

「大変おいしいお茶をありがとうございました」キングズ・イングリッシュの男が

立ち上がると、アメリカなまりの男もつられて立ち上がった。

 ふたりを見送ると、パーペンはため息を吐いた。久しぶりに、気疲れする会談だっ

た。こういった米英独の大使による秘密会談が、いろいろな国で試みられていると

すれば、滑稽というほかなかった。おそらくこの動きはソビエトを混乱させるため

の陽動か、米英の反応を探るジャブで、どこかでもっと真剣な交渉が試みられてい

るのであろう。

 ヒトラーの前のドイツ首相にして、ヒトラー政権発足当時の副首相であったパー

ペンは、大戦前から駐トルコ大使の職にある。ヒトラーは利用価値のなくなったパー

ペンを島流しにしたつもりであろうが、はからずもドイツの中立国大使として世界

政治の焦点に戻ってきてしまって、パーペンの胸中は複雑なものがある。

 ローマ法王庁の動きも、おそらくムッソリーニの働きかけが影響しているのであ

ろう。最近のヒトラーは昔のヒトラーとはどこか違う。最初は自分を陥れるヒトラー

の罠ではないか、和平交渉をさせておいて本国へ送還し処刑する口実にするのでは

ないかと怖れたパーペンだったが、最近ではすっかり腹を括ってしまっている。人

生の明るい面を探して生きていかなければ、パーペンのような立場の人間はやって

行けなかった。





 ドイツ軍のモスクワ方面攻略作戦「ザクラ」は、ブルーメントリット参謀総長の

下で、大慌てでまとめられた。東部戦線が主要な戦場となったため、東方総軍司令

部は1942年の秋を乗り切った時点で解散され、ルントシュテット元帥は孫のところ

へ戻って行った。陸軍参謀本部が直接北方、中央、南方の各軍集団を指揮下に置い

ている。

 キュヒラー上級大将の北方軍集団は、モスクワ−リガ鉄道に沿ってルジェフで蛇

行するボルガ川の上流に達し、川沿いに北東へ進んでカリーニン(現トベリ)でモ

スクワ−レニングラード鉄道を遮断し、そのままボルガ川を渡って北回りにモスク

ワの包囲を目指す。先頭に立つのはモーデル大将の第41戦車軍団で、第1戦車師団、

第6戦車師団、第36自動車化歩兵師団、グロスドイッチュラント自動車化連隊、

第501独立戦車大隊、第653独立対戦車大隊を指揮下におさめる。

 クルーゲ上級大将の中央軍集団は、主要な補給線がモスクワの真西から伸びてい

るため、それより南のミンスク−ゴメリ−ブリャンスク間の鉄道が順調に復旧する

ことを当て込んだ補給計画とならざるを得ず、北方軍集団よりこの面で不利である。

ただボルガ川に匹敵するような障害がなく、平坦な地形が続いていることが利点と

される。ツーラとモスクワの間を駆け抜け、モスクワの東で北方軍集団と手を握る

ことが期待されていた。ロンメル中将は第46戦車軍団を率いて先陣を務め、第2戦車

師団、第4戦車師団、第29自動車化歩兵師団、アドルフ・ヒトラー連隊、第502独立

戦車大隊、第654独立対戦車大隊を隷下に置く。

 空挺作戦の実施は、熟慮の末に見送られた。その最大の理由は、空輸による補給

を実施せざるを得ない可能性が高く、輸送機を温存する必要があるためである。

 攻勢開始は、1943年7月15日と定められた。





「これだけの88ミリ砲があれば、我々はカイロまで行くことが出来た。そうは思わ

んか」ロンメルは上機嫌であった。「まったくその通りであります」マルコは言っ

た。

 ロンメルがドイツに呼び戻されてから、少なからぬイタリア兵士が、ロンメルの

下で戦い続けることを志願した。彼らは必ずしも指揮語としてのドイツ語が理解で

きなかったから当然問題視されたが、結局のところ1個中隊分のみを選抜して、ロン

メル専属の護衛中隊とすることになった。

 彼らはホルニッセ自走砲を装備する第654独立対戦車大隊を従えるように行軍して

いた。装甲の薄いホルニッセが集団のこんなに前の方にいるのも問題だし、その前

を軍団長の通信装甲車がのこのこ走っているのがもっと問題なのはマルコにすら分

かるのだが、ロンメルにだけは分からないらしい。

 ロンメルは兵士に愛されてはいなかったが、許されていた。もし自分たちが急に

出世して高級指揮官になったら、ああいう人物になるかもしれない。そう思わせる

ものがあった。早くにエリートコースに乗った参謀将校にはない、出世し過ぎた同

族としての雰囲気を、兵士たちはロンメルから感じ取っていた。

「敵機!遮蔽物取れ!」叫び声と共に、前方にいる兵員輸送車の分隊長が手を水平

に何度も振るのが見えた。ロンメルもマルコも装甲板の下に身を隠した。爆音が近

づいてくる。機関銃の音が響いた。爆発音がするのは、ホルニッセに違いない。弾

薬が誘爆したのであろう。

 開け放たれた兵員輸送車の真上をかすめた機影は、アメリカ軍から提供されたP39

戦闘機のようであった。かなり遠くで対空機関砲が応射する音がする。ホルニッセ

の88ミリ砲はもともと高射砲だが対空照準装置がなく、こういうときの役には立た

ない。

 ロンメルが無造作に顔を上げたので、マルコも飛び上がるように外を見た。2機い

る。隊列の後ろの方で曳光弾が打ち上げられているのが火花のようである。ソビエ

ト戦闘機はさらに後列に銃撃を加え、合計3台のホルニッセを撃破すると、ロンメル

という大魚を残して引き上げて行った。まさかこんな位置に軍団長車がいるとも思

わないのであろう。

 たとえ航空優勢が確立されている場合でも、陸軍と空軍の意思疎通はどの国でも

難しく、陸軍への航空支援は事前に慎重に計画されない限り当てにならず、不確実

であった。

 再び前進が始まった。「もっと対空火器が必要だな」ロンメルは言った。おそら

くロンメルはそれを実際に上申するだろう。マルコには分かっていた。その資源を

他に使ったらどうなるだろう、などという戦略的な考慮は、ロンメルには無縁のも

のであった。ロンメルは骨の髄まで戦術家であり、その場を最もうまく切り抜ける

方法のみに考慮を集中することが出来た。

「アドルフ・ヒトラー連隊、敵前哨部隊と接触、増援を求めています」レシーバを

耳から離したロンメルの副官が、通信内容を書いたメモをロンメルに手渡した。ロ

ンメルは即座に答えた。「すぐ行くと返電しろ」「は?」「すぐ行く、だ」

 ロンメルの通信装甲車と数両の護衛部隊車は、隊列を離れて不整地に入った。道

なき道をアドルフ・ヒトラー連隊の戦闘地域めがけて直進するのである。マルコは

鼻歌を歌い出したい気分だった。これでこそドン・エルヴィーノだ。





「多少、消費弾薬量が多いかと存じますが」参謀長は遠慮がちに、ボルガ川対岸へ

の準備砲撃計画について、モーデル大将に再考を求めた。

「かまわん。足りなくなったら空輸もあろう。この作戦は短期間に決定的な戦果を

挙げることが求められておるのだ」モーデルは焦りを隠そうともしていない。モー

デルの頭の中を占めているのはロンメルのことばかりである。

「カリーニンへの突入部隊を督戦に行ってくる」参謀長はもう何も言わずに敬礼し

た。モーデルは戦車師団に市街地への突入を命じていた。隠れるところの多い市街

地では戦車が肉薄攻撃を受けて撃破されることが多く、本来戦車部隊には不向きな

ところである。しかし今回はそんな事を言っていられない。もしカリーニンの北に

ある鉄道橋を無傷で奪取できれば、その後の軍団の進撃スピードはまったく違った

ものになるのである。

「街が邪魔になるなら、壊してでも通らねばならん」出かけ際のモーデルのつぶや

きを、参謀長は聞かなかったことにした。





「敵はひどく割の良い取引をしていますな」ロンメルは戦場の状況を一目見て言っ

た。

 アドルフ・ヒトラー連隊は強固に守られたソビエト軍陣地帯にさしかかっている。

連隊から少しずつ前哨部隊を出し、それが撃たれることで相手の位置を暴露させて

いるのだが、前哨部隊の損害がひどく大きかった。このまま行くと、じきに連隊そ

のものが戦力をすり減らして、攻撃任務に就けない状況になってしまう。

「連隊が全体として一度にソビエト戦線を突破するしかないようですな」ディート

リッヒ連隊長はロンメルの言葉に、興奮した赤い顔でうなずいた。「今夜は徹夜に

なるでしょう。兵士に休息と食事を取らせてください」ロンメルはディートリッヒ

の指揮権に無造作に介入した。ディートリッヒは何か言いかけて引っ込め、「軍団

長のおっしゃる通りに」と参謀長に言った。



「ところで、軍団長はこのように長い時間をここでお過ごしになって、良いのです

か」マイヤー少佐は無遠慮に尋ねた。ロンメルとその護衛中隊は、マイヤーの大隊

本部と一緒に攻撃開始時刻を待っている。

「うむ、まあ、すべての軍団直轄部隊は各師団に割り付けてあるから、しばらく司

令部では重要な仕事がないのだ」何が重要で何が重要でないか、ロンメルの意見と

彼の参謀長の意見は異なっているのであろうとマイヤーは思ったが、口には出さな

かった。

「時間だな」準備射撃の開始時刻になったので、ロンメルは短くつぶやいた。ミュー

ンと独特の音を立てて、ロケット弾が次々とソビエト陣地の方向へ飛んで行った。

アドルフ・ヒトラー連隊にはロケット砲中隊がつけられていて、それがありったけ

のロケット弾を撃ち出そうとしている。

 戦車と装甲車が一斉にエンジンをかけ、人の声も聞こえなくなった。



 マイヤーと大隊本部班の面々は、短機関銃を構えて前進するロンメルと、それを

守って展開する護衛中隊のイタリア兵たちを、毒気を抜かれたように見送っていた。

上には上があるものである。「遅れるな」マイヤーの声にどこか力がない。

 陣地に張り付いていた兵士と砲はあらかた制圧したが、まだ夜は明けない。夜間

のことで、前哨を出してはいてもうまく伝令が司令部を見つけるとは限らず、遭遇

戦がいつ起こるか分かったものではない。

 にわかに銃声が激しくなった。だいたい斜め右手としか分からないが、制圧して

いるはずの一角である。ドイツのものではないエンジン音も聞こえる。マイヤーは

手元にあった最後の中隊とともに、応援に向かった。

 敵と味方の区別がつかない。このままでは後ろから味方を撃ってしまうかもしれ

ない。マイヤーは思い切って、照明弾を撃つことにした。信号弾ピストルの先に太

い弾丸を取りつけ、進行方向の上空に撃つ。

 白い光のもとに浮かび上がったのは、10両ばかりのT34、数百人のソビエト兵、そ

してまばらなドイツ兵である。「マイヤー大隊、前進!」マイヤーは叫んで走った。

大隊本部班は心得顔で追随してくる。もはやいくらも距離がない。小銃よりも短機

関銃が威力を発揮しそうである。

 ソビエトのものでもドイツのものでもない発射音が響き渡った。マイヤーはそれ

が、ロンメルたちのベレッタ短機関銃の銃声であることに気がついた。「ドン・エ

ルヴィーノ!」「ドン・エルヴィーノ!」何度も別の兵士が同じ言葉を叫ぶ声がす

る。ロンメル将軍に何かあったかと耳をそばだてたマイヤーは、すぐに事情を察し

た。イタリア兵たちが突撃の景気付けに、指揮官の名を叫んでいるのである。やれ

やれ。軍団長との同士討ちは避けたいものだ。



 夜明けの薄明かりが漏れてくる頃、ようやく大勢は決した。ソビエト軍の有力な

陣地は蹂躪され、突破された。連隊は大きな損害を被ったが、弾薬の補給さえ受け

れば、攻撃任務に就くのに支障はないと思われる。いま各中隊が、使えるソビエト

の短機関銃と弾薬を探し回っているはずである。

 マイヤーは陣地跡を見分しながら、損害報告を受け、当座の指示を出していた。

そのマイヤーの目に、汚れて疲れきった男たちと歩いて来るロンメルの姿が映った。

近づくと、ロンメルは笑顔でマイヤーに握手を求めた。「おめでとう」「ご協力に

感謝します。得難い体験でした。それは?」「ああ、これか。戦利品だよ」ロンメ

ルはマイヤーの視線に気づいて、愉快そうに笑った。

 ロンメルはもう短機関銃を持っておらず、代わりにスコップを握っていた。





 もしモーデルが現在の立場に居なかったら、眼前の偉観を心から楽しむことが出

来たであろう。つなぎ合わされた長い仮設橋梁が、ボルガ川の両岸に据え付けられ

たクレーンによってゆっくりと持ち上げられ、破壊された鉄道橋の両岸の橋脚を支

点として固定されつつある。爆破されずに残った橋脚の基部を使って、その中ほど

を支える工事のために、すでに専門の水中作業鉄道工兵中隊がドニエプル川の仕事

場から呼び寄せられて、川岸に待機している。

 結局のところ、市街戦で多くの車両を失ったにもかかわらず、橋は爆破されてし

まった。モーデルはやり場のない思いをじっとこらえている。まあ、こらえている

と思っているのは本人だけであったかもしれない。幕僚たちは、針が落ちても飛び

上がるほど、上官の機嫌に気を遣っていた。

 当分は、艀を使って少しずつ機材を渡していかなければならない。ソビエトの反

撃は当然予想されるところである。南のルジェフにももう橋頭堡ができているはず

で、そちらからも補給を受けられるようクライスト上級大将に掛け合ってみなけれ

ばならない。ドイツはソビエトの予想したまさにその地点で攻勢をかけているわけ

で、ソビエトの兵力集中は早いであろう。

 アメリカからの本格的な援助のしるしは陸上の戦線にはまだ現れていなかったが、

ベーリング海峡を越えてアラスカからシベリアへ直接航空機を飛ばす補給路は、す

でに働き始めていた。空におけるアメリカ機のプレゼンスは高く、ソビエト軍の移

動を妨害しようとするドイツ空軍の作戦は、時折頑強な抵抗に遭うようになってい

た。

 モーデルの司令部はまだボルガ川を渡っていない。それより早く橋頭堡に送り込

まねばならないものが多すぎるのである。明日こそは、とモーデルは思う。明日こ

そは参謀長が何と言おうと、装甲車1台でボルガ川の艀に乗り、進撃の先頭に立とう。

 参謀次長まで務めたこの自分が、陸軍大学校すら出ていないロンメルに遅れを取

るなどということは、プロイセン陸軍の伝統にかけてあってはならない。そう考え

るモーデルの胸中では、自分も第1次大戦中の速成課程しか出ていないことは、きれ

いさっぱり忘れ去られていた。





 マンシュタイン上級大将が、ロンメルとモーデルの競争の様子について聞く様は、

どこか楽しそうであった。もちろんマンシュタインは別の指揮系統に属するから、

正式な報告書を読むことは出来ない。最近の異動で中央軍集団司令部からやって来

た幕僚から、噂話として聞いているのである。

「私が読んだ最後のロンメル将軍からの報告書には、このような一節がありました。

『私が最近見分した前線の状況から判断すると、ロシアでは戦車は畑で出来るらし

い。我々はこれを刈り取りつつ前進している』」マンシュタインはそれを聞いて、

とうとう声を出して笑った。「もちろんロンメル将軍は、刈り取りよりも前進の方

を優先させているのであろうな」問われた幕僚は、将軍に対して評価めいたことを

言うのを避け、曖昧に微笑した。

「閣下が中央軍集団の指揮を執られていたとしたら、どうされますか」シュルツ参

謀長が尋ねた。「どうもできまいよ。今回の作戦はブルーメントリット(参謀総長)

が立てたものだろう。時間をかけて優勢を拡大することが出来ない、政治的な事情

が優先されておるのだ」「確かに、やや性急ですな」シュルツが相づちを打つ。

「その事情を窺い知ることは出来ないが、モーデル将軍とロンメル将軍を起用した

のは面白い発想だ。ふたりが急いでいるのはいつものことだから、参謀本部が急い

でいるという事実は隠される」新任の幕僚がくすりと笑った。

「ふたりとも、予備などは残さずにすべてを前線に投入しておるのだろう。自分自

身も含めてな。息切れしなければ良いのだが」マンシュタインの口調に深刻な懸念

が混じっているのを、シュルツは感じ取った。





「あれは、グロスドイッチュラント連隊の車両だな」モーデルは通信装甲車から身

を乗り出して、前方を走っている兵員輸送車の列を見ながら言った。第501独立戦車

大隊とグロスドイッチュラント連隊はチームを組んで、モーデル大将の急先鋒とし

て働いていた。

 第501独立戦車大隊の持つ新戦車レオパルドは、43口径75ミリ砲を備える、30トン

級の戦車で、すべてが4号戦車より一回り大きかった。前面装甲は斜めになっており、

弾を跳ね逸らしやすくなっている。決して圧倒的な威力を持っているとは言えなかっ

たが、生残性は色々な点で増していた。

 そのレオパルドをすりつぶすように消耗しなければ前進できないのが、現在の部

隊の状況であった。前後左右が互いに支援し合えるよう横2列以上に配置された対戦

車砲陣地は、何両かの犠牲無しには突破できなかった。もたもたしていると、そこ

へソビエト軍のロケット弾や砲弾が落ちてきて、両軍の兵士と機材を平等に吹き飛

ばした。ソビエト軍も実戦から学んでおり、そうした陣地の手前には必ず地雷原が

あった。工兵を待っている暇はなかった。自分の道は自分で切り開かねばならなかっ

た。

 夜も砲撃のためにほとんど眠れない。互いに嫌がらせのために夜間にも散発的な

砲撃を加えて、敵を眠らせないようにしているからである。最前線の兵士たちは薄

汚れ、目だけをらんらんと輝かせて歩いた。すでに歌う者も、話す者もいなかった。

敵襲があると反応の早い者と鈍い者がおり、鈍い者の中から主に死者が出た。

 モーデル自身も気力だけで起きていた。そして、各部隊を順繰りに起こして回る

ように、絶えず前線の兵士たちを激励した。

 モーデルは、装甲兵員輸送車の隊列から、ひとりとして軍団長に手を振るものが

いないことに気がついた。エンジン音とキャタピラ音だけが鋼鉄のコンチェルトを

奏でていた。最後尾の兵員輸送車に追い付いたモーデルは、車内を覗き込んだ。

 車内は眠りこける兵士に満たされていた。分隊長は立ったまま前部の機銃座にも

たれかかって寝ていた。責任感から警戒役を引き受けたものの、耐え切れなかった

のであろう。

 モーデルの心の中で、叩き起こそうという意見と、そっとして置こうという意見

が激しく争った。ふと自分の車内を振り返ると、着席している副官の頭がぐらりと

揺れて、すぐ元に戻った。副官は上司の視線に気がついて、恐縮した。

「寝ておけ」モーデルは着席しながら言った。「私も少し寝ることにする」





「ひどいものだな」ロンメルは参謀長のまとめた報告原案を読んで言った。

 ロンメルの戦車軍団は、2週間の間に、人も資材も作戦開始前の60%近くまで減少

していた。部隊としての指揮系統は乱れ、もはや攻撃任務に就くことに支障が出て

いた。断続的な反撃と砲撃で、士気も殺伐としていた。

 ドイツ軍の攻勢意図はあまりにも露わであり、迂回して弱いところを突くという

戦車部隊のいつもの手がまったく通用しなくなっていた。ロンメルとモーデルの軍

団がモスクワ包囲を目指しているのは明らかである。進行方向がはっきりしている

から、ソビエト軍はそれを阻むように予備隊を配置していけば良い。

 どの方向へ進出しても敵がいた。小銃弾は空輸できても、重い榴弾はそうは行か

なかった。弾薬の足りない分は、無理な突撃という形で歩兵と戦車兵が対価を支払

うしかなかった。その結果が、この数字である。

 司令部のテントは素通しで、特に入り口がない。だから作戦主任参謀があたふた

と駆けてくるところは司令部に居る者すべてに見えた。「第19戦車師団の先遣隊が、

やって来ました」参謀長が思わず問い返す。「やって来た? どこへだ」「ここへ

です」

 それを追うように、会ったことのない士官が数人、司令部にやってきて挨拶した。

連絡もなく、新しい戦車師団が、まるごと、やって来る。そのことの意味を、ロン

メルとその幕僚たちは、まったく理解することが出来なかった。

 先遣隊の士官が一通の封筒を差し出した。第3戦車軍司令官、エーベルバッハ大

将からロンメルに宛てたものであった。文面に目を走らせたロンメルは、大きくた

め息を吐いて、それを参謀長に渡した。

「エルヴィン・ロンメル中将閣下

 この状況に驚いておられることは容易に察せられる。第19戦車師団を増援するこ

とは当初から作戦計画に含まれていたが、私は参謀総長から、貴官と貴官の幕僚に

対しそのことを秘匿するよう、ブルーメントリット参謀総長から命令されていた。

貴官が貴官に与えられた兵力を最大限に活用し、時として予備隊の不足をかこつこ

とは広く知られているため、参謀総長は予備の存在そのものを貴官から隠すことが

適当であると判断したのである。

 その他の点において、貴官への命令に変更はない。前進せよ。以上である。



                   ハインリヒ・エーベルバッハ(署名)」



 この話は瞬く間に広がった。第2戦車師団の製パン中隊では、見事な腹を叩きな

がら、ある軍曹が言ったものである。「俺も大食らいじゃあちったあ自信がある

が、ロンメル将軍にゃかなわねぇ。なにしろ戦車師団をお代わりするんだぜ」





「モスクワは、どうなると思う」チャーチルに尋ねられて、イズメイ大将は答えた。

「まるで西と東が入れ替わったようです。ドイツ軍は損害を無視して前進しており

ます。すでに4つの戦車師団が壊滅的な損害を被っておりますが、ヒトラーは他の戦

車軍団を解体して新しい師団を送り続けています」

「将軍、私は軍人ではないのだ。結論だけで十分だ」チャーチルは言った。執務室

にはチャーチルがいつも吹かしている葉巻の匂いが染み付いている。いまチャーチル

が葉巻を吸っていない唯一の理由は、紅茶を飲んでいる途中だからであった。

「モスクワは失われるでしょう。一時的に。ロンドンがそうであったように」

「根拠のない励ましは不要だぞ、将軍。私は専門家としての意見を求めているのだ

から」イズメイは怒らなかった。「冬になれば、ソビエトはより多くの援助物資を

受け取ります。ドイツはソビエトの冬に慣れていませんから、ソビエトは結局モス

クワを奪還するでしょう」「ルーズベルト大統領もそう思ってくれるだろうか」イ

ズメイは礼儀正しく沈黙した。

 ソビエトに援助物資を送ることに、アメリカにおいて反対意見がないわけではな

い。レンド・リース法は物資を受ける側が債務を負う制度で、物資の使途などにつ

いてアメリカ議会に報告するのが原則である。ところがソビエトはそれを拒否した

ので、アメリカ政府が議会を説得して、報告書無しで目をつぶることにしなければ

ならなかった。アラスカからシベリアへの航空機輸送にしても、アメリカのパイロッ

トにソビエトの土を踏ませるわけに行かないというので、アラスカにソビエト空軍

パイロットのための宿泊施設をアメリカが建ててやって、やっと成り立っている有

り様である。

 もっと切実なのは、ソビエトに送っている資源を使えば、太平洋方面の戦局が好

転するという問題であった。イギリスとて局外ではない。イギリスはオーストラリ

アやニュージーランドの陸軍部隊を中東に貼り付け続けているため、両国にはアメ

リカ陸軍が駐屯する始末である。オーストラリアは自国部隊の帰還を声高に主張し

ているし、ニュージーランドはそれほどあからさまな主張はしないが、アメリカ軍

部隊の駐屯を婉曲にもinvasionと呼んでいるという噂は、ロンドンにも伝わってい

た。

 ソビエトに継戦能力がないというシグナルが出れば、そうした主張が一気に表面

化してくることは目に見えている。米英とソビエトの協力関係が破綻したとき、イ

ギリスにとって最悪の形で、戦争は終わる。

「大西洋岸のどこかへ陽動としていくらかのアメリカ軍を上陸させることは、出来

ないものか」チャーチルの問いかけ、というよりつぶやきに、イズメイは静かに首

を横に振った。





 ロンメルとモーデルは、走り寄ると無言で抱き合った。ついにモスクワの東で、

ふたりの軍団は出会ったのである。居合わせた兵士たちは歓声を上げた。それはも

う言葉になっていなかった。叫びながら地面に転がり、そのまま眠るものもいた。

先遣隊が出会ってからわずか30分で両方の軍団長が最前線に出てきたのはなぜか、

などという些事を気にする余裕は、もう誰にもなかった。

「モーデル将軍、あなたがそうであるように、私も薄汚れておりますかな」ロンメ

ルは言った。「もちろん」モーデルはにこやかに応じた。軍服は泥だらけで汚れ切っ

ていた。

 しばらく、次の言葉を探すための沈黙が続いた。ふたりとももちろん疲れていた

し、相手が通ってきた道筋が、本質的に自分の通ってきたものと同じであることに

気づいていたから、愛想や慰めを言う気にはなれなかった。

「こうやって、静かな心境で将軍とお会いできたのは、初めてかもしれません」モー

デルが口を開いた。「私はいつも将軍の背中に追い付こうとしておりました」

「とんでもないことです。私は戦争がなければ、がみがみ屋の大佐として退役して

いた男ですよ」ロンメルは応じた。

「今日だけは、もう競争のことは考えたくありません。明日になれば分かりません

が」モーデルの言葉を、ロンメルが混ぜ返した。「あるべき姿に戻るのですな」

 ふたりは笑った。

「我々は良い友人になれそうです。戦争が終わったら、でしょうが」一呼吸の沈黙

の後、ロンメルは応じた。「それもまた、あるべき姿に戻るということでしょう」

 ふたりが考えていることは、同じだった。戦争が終わったら、軍は急速に官僚組

織としての性格を取り戻し、そこには自分の居場所はないであろう。

 ふたりとも、今日の今日までそんなことは考えたことがなかった。互いに相手の

姿を見て、ドレッサーを覗き込んだように、我が身について悟るところがあったの

である。

 1943年8月も、もう終わろうとしていた。



<ヒストリカル・ノート>



 史実において、Uボートが連合軍に抑え込まれ、船舶の損害が減少する分水嶺となっ

たのは、1943年5月であったと言われます。これは次のような状況の影響が長い間に

積み重なった結果であると考えられます。

(1)ドイツ海軍の暗号が1941年夏頃からイギリス軍に解読されており、Uボートの手

薄な海域を選んで船団を通すことが出来た。

(2)短波の発信を感知するHF-DFと呼ばれる一種のレーダーが1941年から順次護衛部

隊に行き渡り、Uボートが司令部に状況を報告するたび、位置を暴露することになっ

た。ドイツ軍は終戦までこのことに気づかなかった。

(3)何隻かの先駆的な艦が投入された後、1942年後半から護衛空母が本格的に就役を

始めた。

(4)ドイツ海軍はUボートに対し、喫水が浅く魚雷の当てにくい護衛艦を攻撃せず、

商船のみを攻撃するよう指示していた。このため年月を経る毎に、ドイツ海軍の熟

練したクルーが失われる一方、連合軍の護衛部隊は機器の操作や協力攻撃に熟練し

て行った。

(5)ポルトガルは大戦末期になるまで参戦はしなかったが、ポルトガル領アゾレス諸

島の飛行場をイギリス軍が使用することを認め、ここから旧式爆撃機を中心とする

長距離哨戒機がUボートを攻撃した。連合軍が保障占領したアイスランドやイギリス

本土からも同様に空からの対潜哨戒が行われた。

(6)ヘッジホックなど対潜攻撃兵器の開発が進んだ。

 このうち(1)(2)(4)(5)については、この作品ではドイツ側に有利な状況になって

います。ただ(3)(6)はドイツからはどうすることも出来ない要因であり、アメリカ

の参戦が防げない以上、この世界でもUボートは1943年になると次第に抑え込まれて

いきます。



 ガイル大将はよくシュベッペンブルクと表記されます(私の過去の創作でもそう

でした)が、ガイル・フォン・シュベッペンブルクが正式な姓だそうです。



 史実では、1943年にはアドルフ・ヒトラー連隊は拡張されて戦車師団に昇格して

おり、グロスドイッチュラント連隊も(公式な名称は最後まで戦車師団ではあり

ませんでしたが)戦車連隊を持った事実上の戦車師団となっていました。この作品

ではヒトラーが戦闘親衛隊の規模拡大を極端に抑制しており、それに合わせて国防

軍の特殊なエリート部隊も拡張を抑えられています。

 グロスドイッチュラント連隊は、もともと式典の際に臨時に編成される、大統領

護衛連隊でした。ドイツでもほとんどの国と同じように、ひとつの連隊は特定地域

の出身者で固められるのが普通でしたが、ドイツ共和国を構成する各地方からひと

つずつ中隊を出し合って、観閲式のために全国区の連隊を作ったわけです。大戦が

始まってから、この連隊も実戦投入されましたが、その兵員は全国から選抜されて

きていて、エリート意識の強い部隊でした。





第27話「結ばれるもの 絶たれるもの」



 ジューコフはいまやクレムリン宮殿の主であった。スターリンと閣僚たちはすで

にはるか東方のゴーリキー市を指して出発してしまった。もっともジューコフは、

スターリンが最終的に落ち着く司令部の位置を知らされていない。

 砲声は絶え間なく聞こえてきていた。モスクワを貫いて蛇行するモスクワ川がい

ちおう天然の要害となっているが、それに沿って突出した部分を残せば、ドイツ軍

の砲撃が集中してしまう。クレムリンを中心とする広い環状道路をはさんで南側の

戦線がかろうじて維持されているものの、その道路に沿ってモスクワ川にかかるク

リムスキー橋とクラスノホルムスキー橋はソビエト軍の手で早手回しに爆破されて

いる。ジューコフは軍人であって政治家だとは自分で思っていなかったが、クラス

ノホルムスキー橋のすぐ南にあるレーニン廟の放棄を命じるとき、ジューコフはさ

すがに声が震えるのを自覚したものである。

 9月に入って、モスクワ包囲網は3度破られ、また閉じられた。ドイツ軍は包囲網

の付け根に強大な予備軍を集め、モスクワそのものには盛んに砲撃を加えながら突

入を急がず、ソビエト軍が外から救出を試みるのを待ち構えていた。ソビエト軍は

十分に隠蔽されたドイツの砲と戦車に−ロンメルとモーデルは多くの燃料切れ戦車

を進撃路に放置したまま進撃していたので、この地域の歩兵師団はたいてい数個中

隊の友軍戦車を捕獲していた−突撃をかけて甚大な損害を出した挙げ句、駆けつけ

た戦車部隊と自走榴弾砲に叩きのめされることを繰り返している。包囲下の部隊も

最初のうちはこれに呼応していたが、弾薬の不足が深刻になったので、現在は防衛

に徹していた。

 ドイツ軍はモスクワそのものを人質にとって、ソビエト軍に不利な決戦を求めさ

せるのが真の目的なのではないか、とジューコフは判断していた。しかしそのこと

をソビエト軍全体の戦争指導に反映させるだけの権力を、もうジューコフは持って

いなかった。

 ジューコフにはもうどこにも行くところがない。あとは地獄、あるいはひょっと

すると天国があるだけである。そのことはスターリンからもはっきり言われていた

が、それを告げる時のスターリンがひどく悲しげだったのが、ジューコフには不思

議だった。それが独裁者の矛盾した心のありようなのかもしれない。





 そのスターリンは、危急に際しワシントンから飛んできたルーズベルトの特別顧

問ホプキンスに対して、不満をぶちまけているところであった。

「アメリカは約束を果たしていない。ソビエトの兵士は血を流しているというのに、

アメリカは空から戦場を眺めているだけだ」「アメリカはヨーロッパでは主に汗を

流しておりますぞ、閣下」ホプキンスは泰然と応じた。「ペルシアルートの港湾能

力および鉄道輸送能力の拡張は順調に進んでおります。順次成果も上がってきてお

るはずです。もっとも私どものスタッフの報告によれば、対応するソビエト国内の

鉄道事情は新たなボトルネックとなりうるとか」

「モスクワは今戦っておるのだ」スターリンは激昂した。もっともその主な理由は、

ホプキンスの正しい指摘に返す言葉がないためであったが。「援助は今必要なのだ」

「ではアルシブルート(アラスカ−シベリア間空輸ルート)を活用して、アメリカ

軍の輸送機をお国に入れてよろしいですかな、閣下」スターリンは沈黙をもって不

同意を示した。

 ホプキンスは続けた。「それから、閣下。イギリスとアメリカの勇敢な若者たち

は、フランス上空でおびただしい血を流しております。もちろん、アフリカにおい

ても」スターリンは無言のまま、身振りでホプキンスに退出を促した。

 ドイツが無制限潜水艦戦の一方的中止を宣言したことは、イギリスからムルマン

スクへ向かう海上輸送ルートにとって有利な材料であった。しかしその直後に交通

の結節点でもあるモスクワが孤立したことで、その有利な点は帳消しになった。モ

スクワが通過不可能だとなると、はるか東方のキーロフからゴーリキーを通るか、

でなければウラル山脈の東にあるエカテリンブルクを経由するのでなければ、南北

の鉄道輸送はできないことになる。こうした路線はキャパシティが限られており、

現在のような戦況で幹線として働くには能力が不足していた。

 あらゆる物資の不足によって、極東におけるソビエト陸軍の攻勢も頓挫し、その

ことがアメリカに対する交渉材料を減らしてもいた。

 いま米英とソビエトが離間すれば、それはヒトラーの勝利に直結する。そのこと

がわからない米英でもあるまいに、とスターリンは思う。米英の単独講和への誘惑

を断ち切らねばならない。

 スターリンは受話器を取り上げ、交換手が出ると、慎重に隠されている番号を告

げた。





 トーゴーは震えていた。カフェにいる客が皆警官に見えた。壁際の席に座り、壁

を背にしても、その震えは止まらなかった。

 トーゴーという姓の人間はトルコにかなりいる。宿敵ロシアが敗れた日露戦争の

英雄にあやかって改名した人々とその子孫である。トーゴーを名乗っているからと

いって特別な人々というわけではなく、それゆえ貧しいトーゴー氏もいた。貧しい

トーゴー氏の中には、その当の宿敵に雇われることもやむを得ないと考える者も、

いないわけではなかった。

 渡されたものは、彼の足元の重いかばんに入っていた。警官はともかく、少なく

ともその人物の雇った監視者は、このカフェのどこかで彼の挙動を見ているであろ

う。

 トーゴーは汗をぬぐった。さっきから汗をぬぐってばかりいる。濃いコーヒーを

一気に飲もうとしたトーゴーはむせ返った。店内は込んでおり、周囲の客がじろり

とトーゴーを見て、すぐ目を離した。居たたまれなくなって、時間をつぶすつもり

だったカフェから出ることにした。

 かばんの重さが、トーゴーの心にのしかかってきた。





 パーペンは事の成り行きに驚いていた。なんとイギリス大使から政府にオーソラ

イズされた秘密回答があり、講和のための条件提示を求めてきたのである。パーペ

ンも首相時代は議会の支持が得られず、ヒンデンブルク大統領の権限による大統領

令で政治を行ってきた人物であり、民主主義の尊重という観点から言うとあまり好

成績を残したとは言えないのだが、米英にしてみれば大物政治家としてのパーペン

の過去を買っているらしい。とはいえ、政府からの訓令を取り次ぐことしか出来な

い点ではパーペンも普通の大使と変わりはない。

 そのドイツの回答が、ユンカース旅客機でアンカラに運ばれてきたので、パーペ

ンは使者を迎えに空港にやって来たところであった。

 トーゴーは写真をちらりと見てパーペンの顔写真を確認すると、ゆっくりとパー

ペンに歩み寄って行った。冷や汗は止まろうとしなかった。トーゴーはまた汗をぬ

ぐった。

「もしもし、お客さん」空港警察の制服警官が、トーゴーを呼び止めた。重そうな

かばんを引きずるようにして不安げに歩く、身なりが良いとは言えないトーゴーは、

置き引きに見えないこともない。

 トーゴーは無言で駆け出し、警官は無言で追った。パーペンはトーゴーが走り寄っ

て来るのに気づき、身をかわそうとして、トーゴーが自分めがけて走ってきている

ことを理解し、悲鳴を上げた。

 トーゴーはかばんのスイッチを入れると、それをパーペンめがけて放り出した。

その瞬間、トーゴーは警官に後ろから組み付かれた。

 今度はトーゴーが悲鳴を上げる番だった。パーペンは走って逃げた。数秒後、轟

音を立ててかばんは爆発した。トーゴーと警官はガラス壁に叩き付けられ、ガラス

を割って飛び出し、そのまま動かなくなった。

 パーペンは爆風で転び、起き上がることも忘れて、ただ震えていた。パーペンは

てっきり、ヒトラーの刺客に狙われたものと思っていた。





 パーペンが暗殺されかかったという第一報は、米英にも入ってきた。米英として

は、逆にソビエトとドイツの単独講和の可能性を考えに入れなければならない。こ

のままドイツとの交渉を長引かせ、ソビエトとの関係も好転させることが出来なけ

れば、その危険は現実のものとなりかねない。

「急がされてしまいましたな」トルーマンは言った。

「だが、ドイツにも代償を払わせねばならん。それなしで交渉だけを進展させるこ

とは無意味だ」ルーズベルトは言った。

 ルーズベルト政権は欧州情勢に深入りし過ぎていた。イギリスを積極的に支援し

てきたことの功罪一切は、アメリカにおいてはこの政権が負わねばならなかった。

もしドイツがほとんど何も失うことなく、ヨーロッパの現状を固定することに成功

したとしたら、1940年以降つぎ込まれてきたアメリカの資金と少なからぬ人的犠牲

は無駄に終わったことになる。それは耐え難かった。次の選挙のこともあるが、そ

れだけではない。政権に携わったものすべてのプライドかかかっている。

「ハリー、トルコへ飛んでもらおう。トルコとの、そうだな、何を交渉するかは後

で考えよう。非公式訪問が出来れば口実は何でもいい」ルーズベルトは早口に言っ

た。「ドイツに提示する最低限の条件は…」





「80万人か」ロンメルの昇進とモーデルの叙勲の式典に立ち会うためベルリンにやっ

て来たムッソリーニは、ヒトラーと例によって秘密会談に及んでいた。

「まあ親衛隊の報告の数字やからな。これより多いことはあっても、少ないことは

ないやろな」ヒトラーは不快感を口調に込めた。

「広島と長崎のざっと3倍か。一桁抑えました、言うて通る数字やないな」ムッソリー

ニも深刻に応じた。

 ヒトラー政権成立からこれまでの間に、ドイツの強制収容所で亡くなったユダヤ

人の合計である。形式的には自然死であっても、薬品や医療機材を止めたために助

かる病気も助からなかったケースがあり、餓死や凍死があり、それに比べればドイ

ツ軍やソビエト軍が直接武器を使用したケースはむしろ少ないほどである。「わし

らのやったことは何やったんやと思うわな。この他に普通の戦死者がおるわけやろ」

「そうなんや」ヒトラーは小さな声で言った。

「ドイツの業とか、イタリアの業とか言うのは、わしらだけでどうにかなるもんで

はなかったか」ヒトラーの言葉に、ムッソリーニはため息を吐いて応じた。「もう

ちょっと早う着いとったらな」「それはそれで無茶な話やな」ヒトラーは言った。

「それでや、相談があるんやけどな」ヒトラーはごそごそと書類を取り出した。ト

ルコのドイツ大使館経由で届いた、アメリカからの秘密通信である。それを読み終

えたムッソリーニは、沈黙したままだった。ヒトラーも言葉をかけなかった。

「どうするつもりや」ようやく発せられたムッソリーニの言葉は、低く鋭かった。

「受けようと思う」ヒトラーは即座に、短く言った。

 ムッソリーニは嘆息した後、言った。「本土決戦になるやろか」「なるやろ。ソ

ビエトだけでも止めてやりたいけれども、それを言うたらまた交渉が長引く。ソビ

エトも気づいとるさかいな」

 ムッソリーニは書類を投げるようにテーブルに置いた。「それにしても、きっつ

いこと言うて来よるなあ」ヒトラーは応じた。「しゃあない。それが経営や」

「世界が変わっても、わしらのやっとることは、一緒か」ムッソリーニの口調には

微苦笑が漂っていた。ヒトラーも笑った。「そや。今月の手形落とさすのが精一杯

の、中小企業や」





 ヒムラーは、終始無言で、ヒトラーの説明を聞いていた。

「君と君の部下は、私に対する義務を忠実に果たしてくれた。これからもそうであ

ることを期待している」ヒトラーは、そのようなことを口に出来る自分に驚きなが

ら、そのことを顔に出すまいと努力していた。

「革命は、後退するのですな」ヒムラーは言った。革命? ヒトラーは、NSDAPの

政権掌握が党内では革命と捉えられていたことに、新鮮な驚きを覚えた。もっとも

主にそういった急進的な側面を強調していた党幹部は、1934年の粛正であらかた殺

されており、その粛正にヒムラーはかなり深入りしていたのであるが。

「そうだな」ヒトラーは何気なく言った。その言葉にヒムラーが噛み付くように反

駁してきたので、ヒトラーは目を見張った。「総統はゲルマン民族の指導者であら

れる。そのことをお止めになるというのですか。我々に勝利をもたらすことを放棄

してしまわれるのですか」ヒムラーはなお興奮して言葉を継いだが、それはいつし

か脈絡を失ってスローガンの羅列となって行き、突然止まった。「申し訳ありませ

ん、総統」

「たしかにドイツにはプライドが必要だった。連合軍はドイツから取り上げてはい

けないものを取り上げた。それがプライドだ」ヒトラーは穏やかに言った。その穏

やかさには不吉な影があった。ちょうど真犯人を言い当てる探偵の口調のような。

「しかし、無制限に尊重されるべき権利など、世界にはないのだ。権利は必ず、他

者の権利とぶつかる瞬間がある。それは民主主義とか独裁制とか言った次元より、

さらに基本的なところにある、誰もが直視すべき現実なのだ」

「その衝突を処理するルールは、勝者のみが作るものでありましょう」ヒムラーは

食い下がった。

「確かにルールは勝者が作る。しかし勝者の自制なくして、ルールは安定しない。

ドイツは勝者に加わり、そして自制するのだ。国外においても、国内においてもだ」

「私が自制していなかったと?」ヒムラーは泣き声になった。

「誓いを立てよう、ヒムラー長官。私より先に、君を死なせはしない」ヒトラーは

言った。「だから今は、君の力を私のために使ってくれ」

 沈黙の後、ヒムラーは言った。「私はあなたのメフィストフェレスですか」

 ヒトラーは答えた。「そうだ。そして私は、君の理解者となろう」





 深夜の総統官邸は静まり返っていた。執務室に聞こえる音といえば、ヒトラーが

時折ペンを走らせる音と、時折原稿用紙を破って丸める音だけである。

 控えめなノックに続いて、ティーポットを盆に載せたエヴァが現れた。

 ヒトラーは、振り向こうともしない。

 エヴァは盆を机の端に置いて、何か言おうとしたが、言葉は口を出ていこうとし

なかった。

「ありがとう、エヴァ」ヒトラーは振り向きもせず言った。

「今日はもう遅いわ」明日の演説の原稿を書いていることは、エヴァも知っていた。

知っていて、言わずにいられなかった。

「エヴァ」ヒトラーは振り向いた。「これからも、私と一緒に、歩んでくれるか」

「え? ええ」エヴァは不思議そうに言った。

「健康なときも、病めるときも?」

 エヴァはじっとヒトラーを見たまま、しばらく答えなかった。そして、言った。

「貧しいときも、富めるときも」

 今度はヒトラーが黙った。やがてヒトラーは、小さな声で言った。

「私には、君の助けが必要だ」「明日の演説、ひどいの?」

 ヒトラーは答えなかった。エヴァは、ゆっくりとヒトラーに近づくと、首に自分

の腕を回した。

「あなたが言ったんだから、忘れないで、アディ。どんなときだって、私も一緒よ」





 ヒトラーの重大放送があるという知らせは、国境を越えて、ヨーロッパ全体に届

いていた。ユーゴスラビアで、スイスで、イギリスで、そしてもちろんドイツで、

無数のラジオがひとつの電波を受けていた。ヨーロッパは、ひとつの発表を予期し、

待っていたが、同時にそれが何か未知の悪いものを伴っていないか、怖れていた。

「私は政治家として、ドイツ国民が幸福を追求することを手助けしてきた。もしド

イツ国民が幸福を追求する方法が、独善的なものであったとすれば、その責任はもっ

ぱら私にある。私はドイツ国民がそのような希望を持つこと、また希望が実現する

と予想することを奨励し、推進したからである。しかし今や、他の国民が同様に幸

福を追求していることを認めることが必要であり、望ましい」ヒトラーは静かに語

り始めた。

「ドイツの置かれた地位は、確かに不当であった。それを修正するために、我々は

力を求め、力を得た。しかしながら力を持つものは自制せねばならん。ドイツには

残念ながらその点で手落ちがあった」観衆がざわめき始めた。ドイツはひょっとし

て、負けたのか?

「行動を自制できる国々は、世界を混乱と戦乱から救い出すために、協力し合わね

ばならない。ドイツはその中で、名誉ある地位を占めるであろうし、占めねばなら

ない」観衆のざわめきがおさまってきた。どうやら少なくとも敗戦ではないらしい。

「我々は先頃、ある合意に達した。ドイツおよびヨーロッパにおけるその同盟国は、

アメリカ合衆国、連合王国およびイギリス連邦諸国と、本日正午から1週間の停戦に

同意した」歓声と拍手があまりに大きいので、ヒトラーの演説は約15秒中断した。

「さて、アメリカ合衆国および連合王国政府が、この喜ばしい知らせを世界に告げ

る権利を私に譲ったことには、ひとつの理由がある。私がこの場においてある確約

をしない限り、彼らは停戦協定締結のための話し合いに応じないと言っている。す

なわちそれは、停戦が1週間で終わることを意味する」ヒトラーは言葉を切った。

 議場は静まり返っている。ロンドンでは、チャーチルが罪もないラジオをきっと

にらみ付けながら、ヒトラーの言葉を聞き逃すまいとしていた。

「彼らは、ドイツおよびイタリアが、日独伊三国同盟を解消することを要求してき

た。私は極東の戦友に対し、あえて裏切り者の汚名を着ることで、ドイツの指導者

としての責任を果たしたいと考え、ムッソリーニ統領の同意を得た。我が国は同時

に、ソビエトに対するアメリカとイギリスの援助がこれ以上行われないことを要求

し、彼らはこれを受け入れた」

 聴衆はまだ歓呼の声を上げようとしない。彼らは待っている。東部戦線は、どう

なるのか。それが知りたいのである。

「このことは、我々がソビエトと永遠に戦い続けることを意味するものではない。

私はソビエト政府に対し、和平のための交渉を始めるよう呼びかける。今回の交渉

と連動して、アメリカ合衆国政府、連合王国政府およびローマ法王庁に対し、私は

ドイツとソビエトの和平の実現に向けて協力を要請したところである。勝利は国民

の心のうちにあろう。私は敢えてここで、勝利という言葉に拘らない。諸国民は平

和を欲している。そうであろう、諸君」聴衆の中には戸惑いが見られた。ここで下

手なことを叫んで、あとで親衛隊の尋問を受けることはあるまいかと。「そうだ。

平和だ。4年前、私が諸君から奪った言葉だ」最初は小さく、そして次第に大きく、

唱和が広がって行った。「平和! 平和! 平和!」

 やがてヒトラーは身振りで聴衆を静めた。「諸君、我々は平和まで後一歩のとこ

ろまで来ている。最後の瞬間まで、私は総統として、諸君と諸君の子弟に対し、峻

厳な命令を下さなければならない。あと少しの支援を、私に与えて欲しい」

 本物の歓呼と拍手が起こった。

 ほとんどのドイツ人にとって、日本の運命など、どうでもいい、というより想像

もつかないことに違いない。ヒトラーはそれを感じつつ、演説を続けた。

「私はこの機会に、国民と私の関係の見直しに着手したい。従来のNSDAPの宣伝は、

過度に私を神格化する傾向があった。私は国家経営に一身を捧げているため独身で

あると発表されてきたが、これは事実ではない。私には皆さんに紹介したい女性が

いる」ロンドンでは、ラジオの前のチャーチルがティーカップをひっくり返した。

「その女性が私のプロポーズを受けてくれれば、正式に発表するつもりである」

 ヒトラーは言葉を切った。観衆はどうしていいか分からないようであった。控え

めな拍手が起こった。ある若者が、勇気を振り絞って、指笛を吹いた。哄笑が沸き、

拍手が大きくなった。ヒトラーはにやりと笑って一礼すると、演説を続けた。

「私も国民に対して正直にならねばならないが、国民を私に対して正直にする手段

と時期について、現在真剣な検討が行われている。ヨーロッパの復興と言う仕事は

あまりにも多くの負担を諸国民に強いるので、それについて沈黙を強いるというわ

けには行かないであろう。だが私は繰り返す。この種の改革は段階的に行われる。

現時点で、国民のすべての意見を公にすることは、耐え難い社会的混乱を招くであ

ろう。国民諸君には理解と自制を要望する」





 首相官邸では、エヴァが出迎えていた。かつてないことであった。エヴァの存在

は官邸関係者には知られていたが、送迎の場のような部外者のいるところでは、ヒ

トラーとエヴァの関係を暗示するような行為は慎重に避けられてきていた。

 エヴァはヒトラーに抱き付いたので、出迎えの官邸スタッフから罪のない笑声が

起きた。「私に言うことがあるんじゃない? 私のいたずら坊や」エヴァは体を離

して、ヒトラーを見つめた。「早く済ませてしまいましょうよ。私の返事は一言で

済むんだから」



<ヒストリカル・ノート>



 1941年にモスクワが危機に陥ったとき、ソビエト政府のいくつかの機関はクィビ

シェフという都市に疎開する準備に入りました。このときスターリン自身がどこに

移動する予定であったか、現在も分かっていません。

 東部戦線がドイツにとって最も有利であった1942年に、アメリカ政府とローマ法

王庁の関係者からソビエト抜きの和平について接触を受けた直後、パーペンはソビ

エトに雇われた暗殺者に襲われたが未遂に終わった、とするKGB関係者の回顧録が

出版されていますが、この回顧録には信憑性を疑われている部分がいくつかありま

す。この小説はこのことを踏まえて書かれていますが、マイソフ自身は史実として

のこの事件の真偽について、判断を留保します。





第28話「愛はさだめ」



「揺れる思いを電波に乗せて、鳴らせ科学の金の鐘」男性アナウンサーが呼びか

ける。

「私の叫びぼくのささやき、届けて見せます宇宙まで」女性アナウンサーが続

ける。

「さあ今週も行ってみましょう」男性アナウンサーが叫ぶ。スタジオの観衆が唱

和する。「ラーブ、ブリッツ!」

 ドイツと米英が停戦してから2ヶ月で、東部戦線にも平和が訪れた。誰もが驚い

たことに、バルト三国、白ロシア、ウクライナの独立を認めた後、スターリンは

縮小されたソビエト・ロシアにおいてその政権を保った。ヨーロッパから戦火が

消えてから1年ほどして、米英・中国と日本の戦争も、日本の惨敗に終わった。

 1948年、ヨーロッパ戦域における最終的な講和条約の締結を前に、ヨーロッパ

は失われた青春を一気に取り戻そうとしていた。ラジオ局は争うように、愛の告

白番組を娯楽番組のメニューに加え、平和を謳歌する市民たちの気持ちに応えた。

 平和と共に、忘れられていた問題や、先送りされてきた問題が各国の政治にお

いて浮かび上がってきていた。





 シュペーアが執務室に入ってきたとき、ヒトラーは老眼鏡の縁に手をかけて、

新聞を読んでいるところであった。ヒトラーが老眼鏡を使っていることはしばら

く前まで報道上のタブーであったが、最近はそういう不自然な規制は取り払われ

てしまった。

「統領が苦心しているようだな」ヒトラーは新聞を机に置いた。米英仏ソ日独伊

の間では原則相互無賠償の取り決めができ、ドイツから収奪や株式譲渡の強要を

受けたフランスに対して、ドイツが友好の贈り物をすることでどうやらおさまり

がついた。おさまりがつかないのは、日本と中国、イタリアとエチオピア、ドイ

ツとポーランドと言った、1939年とそれ以前からの行為の後処理である。イタリ

アはエチオピアとの賠償交渉で、国王サイドとエチオピア皇帝サイドの狭間に立っ

て、ムッソリーニが苦慮していた。

「人のことを考えている場合ではありませんよ、総統」シュペーアは軽くジャブ

を放った。「エルザスとロートリンゲン(アルザス・ロレーヌのドイツ語圏での

呼称)に、アメリカ企業が進出しようとするまとまった動きがあります」シュペー

アは報告を始めた。

 相互無賠償といえば聞こえはいいが、復興資金はそれぞれ自前と言うことであ

る。荒廃したヨーロッパを自力で立て直す資金力がヨーロッパ諸国にあるはずも

なく、アメリカは様々な形で有償無償の援助を行い、それを梃子として様々な面

で世界の主導権を握ろうとしていた。

 ドイツとフランスが1940年に結んだものは休戦協定であって、アルザス・ロレー

ヌを含む広い地域の軍政権をドイツに認めているに過ぎない。ドイツはこの軍政

権を濫用して、アルザスとロレーヌのドイツ化を進めてきていた。ヒトラーはあっ

さりと両地域の軍政権を返還してしまったので、ドイツ国内に激しい不満を呼ん

でいた。

「終わってみてはっきり思うのだが、この戦争は、結局のところアメリカが勝つ

以外の結末は有り得なかったのだ」ヒトラーは言った。「もしアメリカが参戦し

なければ、ドイツはヨーロッパを席巻していたかもしれないが、戦争が終わった

とたんに、ドイツはアメリカに借用証を書かざるを得なかっただろう」

「それは真実でないと思いますが、かなり真実に近いですな」シュペーアは認め

た。「こうして我々が話している間に、また物価が1%ほど上がったでしょう」

 戦争が終わって解き放たれた消費と、生産能力への破壊の爪痕が結婚すると、

インフレと言う子供が産まれる。膨らみ切ったドイツの国庫負債残高が実体経済

に及ぼす破局的な影響を遮断するために、広範な価格統制が敷かれていたが、ヒ

ムラーとボルマンがその才知を尽しても、闇市場の完全な取り締まりは不可能で

あった。ドイツは膨大な余剰兵器を持っていたが、ほとんど誰もそれを買おうと

言うものはいなかった。ルーマニアとハンガリーだけは手を挙げていたが、彼ら

がそれを何に使おうとしているかは明らかであったから、ドイツとしては自らの

利益のためにも自制せざるを得なかった。

「結局のところ我々は、少しばかり戦死者を減らして、少しばかり古い建物を残

しただけだ」「少しばかりと言うことはないでしょう。ケルンの大聖堂が爆撃で

も受けようものなら、取り返しがつきませんから」シュペーアが建築家らしいこ

とを言って笑ったところで、ホットラインのベルが鳴った。「ああ、噂の人物が

登場したな。ここにいていいぞ、シュペーア」「いえ、私には日本語は分かりま

せんので」シュペーアはにやりと笑うと席を立った。

「毎度」ヒトラーは電話を取ると言った。「どないだ」「あかんな」ムッソリー

ニの口調にはさばさばした諦観が感じられる。関西人が阪神タイガースのことを

語るときの口調である。「納まらんわ。ほんまにどうにもならん」

「いっそ亡命して来るか」ヒトラーは努めて陽気に言った。「社長、イタリアは

確かにたいしたことは出来んけど、わしはイタリアに多少の責任は感じとるのや」

ムッソリーニは応じた。ヒトラーは少し沈黙した後、言った。「アメリカに、金、

借りるか。ドイツは黙認するで」「せやな。おおきに」ムッソリーニが感謝した

のは、ヒトラーの配慮に対してであって、提案を実行しようと言う気はないらし

い。実際、金策がつけば済む問題ではなく、メンツのぶつかり合いでもあるので

あろう。

「コンコルダートの件やけどな。法王庁は喜ぶ言うより、びっくりしとるな。け

ど前向きに、使節送る言うとる」「そらおおきに。あとはリッベントロップにあ

んじょう言うとくわ」ヒトラーは電話を切った。

 ローマ法王庁と世俗政権の協定をコンコルダートと総称する。戦前にローマ法

王庁とヒトラー政権は、ドイツ国内でのカトリック布教を迫害しない代わりに、

カトリック教会が従来支援していた中央党から手を引くというコンコルダートを

結んでいた。ヒトラーはこれを逆転させ、NSDAPとの対立を先鋭化させない程度に

自制できる野党勢力を作るために、ローマ法王庁に協力を求めていた。

「あいつ、無理しとるな」ヒトラーはつぶやくと、一般用電話を取り上げた。





 ムッソリーニはそれを予期していた。知っていたと言った方がいいかもしれな

い。だから統領の執務室に入ってきた兵士たちは、ベレッタ短機関銃を水平に構

える必要もなく、ほとんど言葉を費やさずにムッソリーニを立ち上がらせること

が出来た。

 何人かの保守政治家の示唆を受けて、イタリア国王ヴィットリオ=エマヌエレ

3世はバドリオ元帥に首相として内閣を組織するよう命じた。バドリオ元帥は第一

次大戦の末期に陸軍最高司令官を務めた人物であり、この危急時に国内をまとめ

るには最適の人物と思われたのだが、この時期の人選としては致命的な点がひと

つあった。彼は1936年にエチオピア侵攻軍の指揮を執り、国王からアジスアベバ

大公の称号を受けた身であったのである。米英はこのクーデターを、イタリアが

エチオピアとの賠償交渉を一方的に打ち切る兆候と受け取り、政権の承認を引き

延ばして、消極的に不快感を示した。

 世界が、ドイツの動向に注目した。ドイツは翌日になっても、翌々日になって

も、何の行動も起こさなかった。クーデターに対しては曖昧でどうにでも取れる

コメントを繰り返しスポークスマンが伝えるばかりで、ヒトラーはおろかゲッベ

ルス宣伝大臣、リッベントロップ外務大臣まで公式な場に姿を現さなくなった。

 そう、ドイツ国防軍の中で、ひとつの部隊だけが活発に動いていた。国防軍情

報部直属の、ブランデンブルグ部隊だけが。





 グラン=サッソ山荘でのムッソリーニの扱いは、そう悪くなかった。上には上

の、下には下の事情があった。多くの独裁国家と同じように、市民や一般兵士は

独裁ピラミッドの中間にいる幹部たちを嫌っていたが、その頂点にいる独裁者そ

の人に対しては悪意を持っていない者が多かった。責任ある立場にいる政治家や

将軍たちは、国際社会におけるイタリアの味方がドイツだけであること、そして

それがヒトラーとムッソリーニの奇妙なまでの協調関係に支えられていることを

知っていた。だから彼らは、ムッソリーニの軟禁状態がかなり緩んでいることに

気づいていても、どうすることも出来なかった。

 愛人のクララと息子のトミオがムッソリーニと一緒に暮らすことを申し出たと

き、ムッソリーニ自身も驚いたことに、それは認められたが、裏にはこのような

事情があったのである。





 最初のグライダーが降りてきたとき、ムッソリーニはたまたまベランダのガラ

スのすぐ内側にいた。ドイツ兵が軽機関銃を展開して、山荘の入り口にあるイタ

リア軍の機関銃座を制圧にかかるのが見えると、ムッソリーニは衣装戸棚を開け

てネクタイを締めた。階下の部屋にはクララとトミオが待っている。

 見張りの兵は応戦に出ているらしかった。クララは不安げな顔をしていた。

「ドイツ兵だ。フューラーが脱出の算段をしてくれたのだ」クララはほのかに明

るい表情になったが、トミオは叫ぶように言った。「お父さん、イタリアのドゥー

チェじゃなくなるの」

 ムッソリーニはトミオの顔を覗き込んだ。「イタリアの人たちは、お父さんが

好きじゃないんだ、トミオ」「お父さんは、イタリアが嫌いになっちゃったの」

ムッソリーニは言葉に詰まった。

 銃声は止もうとしない。ムッソリーニが出て行かなければ、死傷者はもっと増

えるだろう。

 やがて、ムッソリーニはトミオの頭をなでた。

「トミオ、お父さんが今日話すことを、あとで聞いておいてくれ。私はお前に話

すのだからな」クララの表情に緊張が走った。「大丈夫だクララ。ただ」「いい

のよ。私もドゥーチェの想いものだもの」クララはムッソリーニの首を抱いた。

「会えて良かったわ。私のかわいい日本人さん」

 部屋を出たムッソリーニは、玄関へ向かった。





「銃を収めろ、イタリアの統領はここにいる」ムッソリーニは大声で何度も叫ん

だ。

 イタリア兵も、ドイツ兵も、銃身を下げて立ち上がった。ムッソリーニは玄関

の機関銃座の位置で立ち止まると、口を開いた。

「私はイタリアの統領である。イタリアが私をどう思っていようと、私はイタリ

アを愛し、イタリアに責任を負っている」ムッソリーニはドイツ兵たちの方を向

いて言った。「総統が私に示された友情を、私は生涯忘れない。しかし敢えて指

摘させてもらうが、君たちはイタリアの領土と領空を侵犯しており、イタリアの

兵士を傷つけている」頭だったドイツ兵が、思わず何か言いかけて、黙った。

「総統にお伝え願いたい。私はイタリアの兵士たちにかつて命じたように、イタ

リアの男として、愛するものを護って死ぬと。その言葉を持って、即刻イタリア

から立ち去られたい」

 ドイツ兵たちは無言で合図し合うと、私服のブランデンブルグ部隊が制圧した

山麓の駅を指して、ケーブルカーに乗って整然と撤退して行った。イタリア兵た

ちは呆然とそれを見送っている。ムッソリーニはそれを見届けると、悠然と山荘

に入って行った。

 やがて、ひとりのイタリア兵が声を張り上げた。「ビバ・ドゥーチェ!」

士官たちが制止したが、しばらく兵士たちはその禁断のフレーズを叫ぶことを止

めなかった。





「かわいそうなことになりましたね」シュペーアは言った。ヒトラーは言葉少な

であったが、やがて言った。「無能であることが、身を守る局面もある。そう思

わないかね、シュペーア」シュペーアはとっさに答えが出てこなかった。

「今がまさにその時だと言うのに、あいつめ」ヒトラーは絶句した。ヒトラーの

視線が、もはや鳴ることのないホットラインに注がれていることに、シュペーア

は気がついた。





 空挺部隊の兵士たちのうち、あるものは制服のまま投降し、あるものはブラン

デンブルグ部隊員たちに私服を借りて、ドイツを目指した。イタリア軍と民衆の

多くはこの件に関わりたがらず、一部は勇敢なドイツ人たちに好意的ですらあっ

たので、最終的には半数に満たないものの、かなりの人数がドイツへの脱出を果

たした。

 この話は瞬く間に広がった。ドイツのメディアは空挺作戦の参加者のコメント

を次々に発信し、それはイタリアでも受信された。イタリア国内におけるムッソ

リーニの人気は沸騰した。そのことが、ある集団の決心を促したことは否定でき

ない。

 事件から2週間後、ムッソリーニの病死が発表されたが、実際には毒物死であっ

たことが数ヶ月後に新政府の手で確認された。新政府とここで言うのは、ムッソ

リーニの死をきっかけに反政府運動が主要都市で先鋭化し、国王と政府首脳は亡

命を余儀なくされたからである。





第29話「醜(しこ)の盾」



 ヒトラーは正直なところ、少しいらいらしていた。いらいらの種はここオラン

ダのハーグにあるのではなくて、ドイツにあった。

 戦争が終わってもう8年になる。ドイツは東欧世界の盟主としてその経済力を消

耗し、シボレーとフォルクスワーゲンの車体のように、アメリカとの経済格差は

開くばかりであった。そのことはドイツ国内に様々な不協和音を生んでいる。ド

イツ議会を復活させようとするヒトラーの計画は、復活後の政権構想の目処が立

たない故に、最後の段階で足踏みしていた。

 問題は、ヒムラーや親衛隊、政府要人、そしてヒトラーの政策に乗って経済的

利益を得た私人たちの扱いにあった。彼らの行為を不法と断じるか、少なくとも

取り消すかしなければ、民主化への道は開けない。そのことにヒトラーはまだ踏

み切れなかった。

 こんなときに、ヒトラーは国際会議の帰りに、外国メディアの単独インタビュー

を受けねばならない。それは単なる巡り合わせに過ぎないのだが、それでヒトラー

の気が納まるというものでもなかった。

 ドアがノックされた。「入りたまえ」若い女性が入ってきた。今日のインタビュ

アーらしい。「はじめまして、総統」女性は元気良く右手を差し出した。ヒトラー

は職業的な笑顔を作って、握手に応じた。女性記者は通信社の名刺を差し出すと、

腰掛けた。

 インタビュー内容は、ヒトラーがまさに悩み抜いている、ドイツ民主化とポー

ランド独立のスケジュールに関するものだった。ヒトラーは率直に語った。

「敵に向かって団結するのはたやすい。しかしそれは自分自身の問題を先送りす

ることにしかならん。私とドイツは、いまその負債を払っているのだ。前進はあ

るが時間がかかる」

「ありがとうございました、それではお約束のお時間も来たことですから」話を

打ち切ろうとする記者を、ヒトラーがとどめた。「お嬢さんは、大学を出たばか

りかな」

「はい、大物の、あ、ごめんなさい、重要な方とのインタビューは、これが初め

てなんです」女性記者は笑顔を見せた。「今までのお仕事というと、小学生の合

唱コンクールの記事とか、最新の家庭用電気器具がクッキングに与える影響とか、

そういうものばかりで。それはそれで楽しいお仕事なんですけど」しゃべり出し

たら止まらないタイプらしい。

「インタビューのお仕事がしたくて、政治部に回してもらったんです。あたし、

書くことも好きですけど、話すことはもっと好きなんです。ぴったりの職場だと

思いません?」

「そうだね」ヒトラーはやっと一言差し挟むことが出来た。「それではお嬢さん

の前途を祝して、ひとつ特別な発表をしてあげよう。独占記事だぞ」

「何ですの?」記者は笑顔を見せた。本気にはしていないらしい。

「いいかい。ヒトラー総統は」ヒトラーは新聞記事を読み上げるように言った。

「ドイツ国内におけるユダヤ人文学作品、その他の芸術作品の販売・所持に関す

る規制を、抜本的に見直すことを検討すると語った」

 メモを取っていた女性記者の顔から、笑みが消えた。

「いいかい、裏を取っても無駄だぞ。私が今思いついて、これから所要の措置を

講ずるのだからな。ヒムラーもゲッベルスもフリックも、このことについては何

も知らない。それも長いことではないが」

「よろしいのですか」女性記者は小さく言った。

「物事には、思い付く瞬間というものがあるのだよ」ヒトラーはおどけて言った。

「それに、いずれやらねばならないことだ。そう思わないかね、お嬢さん」

「ええ、そう思いますわ」女性記者は言った。笑顔が戻ってきた。「私たちは、

お友達になれそうですね。驚くべきことだと思いますけど、あら、ごめんなさい」

女性記者は赤くなった。ヒトラーは立ち上がり、右手を差し出した。

「また、お会いできるといいですね」女性記者は言った。「会えて嬉しかった」

ヒトラーは応じた。





 ヒトラーの禁酒は最近すっかり緩んでいる。ムッソリーニが死んでから、ヒト

ラーは夕食後のひとときを、酒瓶と共に過ごす日があった。酒瓶と、グラスがふ

たつ。

 総統官邸の応接室で、ヒトラーはそのようなひとときを過ごしていた。

「一桁減らしといて、よかったなあ、政やん」ヒトラーは独り言を言いながら、

自分のグラスにワインを継ぎ足した。もうひとつのグラスには主がなく、ワイン

が注がれたままである。

「わしらは何もせんかったわけでは、ないのやな。守ってやれた人も、おるのや」

涙がグラスに落ちた。「知っとるのは、わしらだけやけど」

 ヒトラーは、涙をごまかすように、グラスを一気に空けた。

「せや。生きとったら、ただの人や」





 毛布を持ったエヴァ夫人が入ってきたとき、ヒトラーはテーブルに突っ伏して

寝入っていた。ヒトラーの肩に毛布をかけたエヴァは、テーブルの上にあった名

刺に気がついた。

 女性の名刺らしい。「まあ」思わず声を上げたエヴァは、いたずらっぽくヒト

ラーを見下ろすと、毛布をヒトラーの頭の上まで引き上げ、行ってしまった。

 名刺には、こう書かれていた。





 ロイター通信社 ハーグ支局



 記者 アンネ・フランク





第30話「なにわの春」



「やはり高いな」ヒトラーは新通天閣を見上げた。ドイツから日本に贈られたこ

の鉄塔は、高さ334メートルを誇り、世界で一番高い自立式鉄塔である。側面には

大きくI.G.ファルベン社とテレフンケン社の広告が躍っている。

 ヒトラーは総統として初めての日本訪問を果たし、新通天閣の除幕式に出席す

るところであった。時は1952年4月初旬、大阪の桜は満開を過ぎ散り初めようとし

ている。エヴァとシュペーアは桜が珍しいらしく、しきりに路傍の桜に目をやっ

ている。

 戦争の爪痕は町並みからは消え去っていたが、ヒトラーの目には大阪の街はど

こかくすんで見えた。人の匂いはするが、勢いというものが感じられない。大阪

は幸い本土決戦の戦禍は免れたはずだが、大阪湾からアイオワ級戦艦4隻と重巡洋

艦13隻が砲身命数の尽きるまで艦砲射撃を加えたと聞いている。

 ヒトラーを歓迎する日本人の視線はどこか冷ややかであった。それはそうであ

ろう。日本人にとってヒトラーは裏切り者である。護衛の警官の物々しさだけが

目に付いた。

 つつがなく除幕式を終え、ヒトラーは大阪城跡地公園に向かうべく、自動車に

乗った。間もなく公園に着こうという頃である。

 警備に当たっていた日本陸軍のサイドカーが、ついと隊列を離れた。僚車の乗

員が慌てる様が見えた。サイドカーに乗っている士官がポケットから白い細布を

取り出して頭に巻いている。その額の部分に赤い日の丸がある。布を巻き終えた

士官は、日本刀を引き抜いて鞘を捨て、叫んだ。



「か〜〜〜〜ん〜〜〜〜ぞ〜〜〜〜く〜〜〜〜」



 半ばかすれた叫び声が、奸賊、という日本語であることにヒトラーが気づいた

とき、サイドカーはヒトラーの乗るオープンカーに迫っていた。

 日本陸軍の警護用サイドカーは、天皇への直訴者などに飛び掛かって取り押さ

えることを想定して、側車の前がわざと空けてある。ヒトラーの乗用車を守るサ

イドカーの乗員が、不審車に飛び掛かるのと入れ違いに、不審車から日本刀の男

がヒトラー車に飛び移った。

「てんっ、ちゅううううううう」男は叫びざま、ヒトラーの腹に深深と日本刀を

差し入れた。運転手が車を止め、懸命に男をヒトラーから引き剥がす。

 後続車に乗っていたシュペーアとエヴァが、走り寄りながら懸命に呼びかける

声が聞こえてくる。その背後で魂消るような奇声が上がったのは、サイドカーの

運転手が自決した声であろうか。

 ヒトラーは自分の傷を見た。痛みは鈍く深く、絶え間なく赤いものが染み出し

ている。

「エヴァ」ヒトラーは言った。「手近の、桜の木の下へ運んでくれ。私の最後の

務めを果たさねばならん」救急班が近づいてきた。「公務中である。下がれ」

 ヒトラーに日本語で命令されて、救急班員たちは立ち尽くした。その間に、シュ

ペーアとエヴァはヒトラーの言う通り、大阪城公園の桜の木の下にヒトラーを運

び、横たえた。

「シュペーア、私の背広の、左の内ポケットに、封筒があるだろう」ヒトラーは

言った。封筒を取り出したシュペーアに、ヒトラーは短く言った。「読め。そし

て、証人になって欲しい」



 私、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、職務遂行が不可能になった場合、総

統としての権限と称号を、ヘルマン・ゲーリング国家元帥に承継させる。承継が

完了するまでの間、予備軍司令官ブラスコウィッツ上級大将は、戒厳司令官とし

て国民、軍および警察その他の一般親衛隊に対し必要な命令を下すことができる

ものとする。



                    アドルフ・ヒトラー(署名)



「総統、これは」シュペーアは絶句した。

「治まらん。彼では治まらんよ、シュペーア。だから任せるのだ」ヒトラーは言っ

た。「もはや体制内の改良は限界だ。ドイツは大きく変わらねばならん。私の死

と同時に、ヒムラーとの盟約も無効となる」シュペーアにはその意味は分からな

かったが、ヒトラーはかまわず話し続けた。

「ブラスコウィッツもゲーリングもヒムラーの仇敵だ。ヒムラーは行動に出るぞ。

まず国軍を挙げてヒムラーの牙を抜き、次いでゲーリングへの世論の批判に対し、

軍は中立を守るのだ」ヒトラーは苦しげに息をした。

 ブラスコウィッツはポーランド戦の折、親衛隊の残虐行為を強く非難してヒム

ラーに疎まれ、以来要職への就任を妨げられ続けてきた人物である。

「カナリスには、ブランデンブルグ部隊の兵営に入るように伝えてくれ。自分の

身の安全には疎い男だからな」ヒトラーはシュペーアに言った。

「私はどうなります、総統」「君も政権の要人として、腕を振るってきたではな

いか。責任を取ってしかるべきだ」ヒトラーは顔を歪めて笑った。「だが君には

大きな選択権を与えよう。私はこれを君に預ける。破っても良いぞ」

 シュペーアは笑った。「少々お時間を頂きます。家族を出国させますので」

「私はドイツに帰るわ」エヴァはヒトラーに言った。「何も出来ないけど、あな

たの代わりに、すべてを見届けます」

「エヴァ、君がどこにいようと、そこが私の故郷だよ」ヒトラーの声はもう聞き

取れないほど小さかった。「月は…」

「え?」エヴァは耳を近づけた。

「月は、まだか」



 一陣の春風が、桜の花びらを、3人に降りかからせた。







願わくは花の下にて春死なむその二月(きさらぎ)の望月のころ

                           西行法師(山家集)





                         なにわの総統一代記 完




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