第2部 大将軍



 第6章 疾風マイヤー



 6月7日 午前9時 サン・メール・エグリーズ村



「第21戦車師団が、オルヌ河口のイギリス軍を撃退したんだそうだ」ディートリッヒ

大将は、電話報告するヴィット准将に楽しげに告げた。ヴィットは第12SS戦車師

団の主力を挙げて、この重要拠点への道路からアメリカ空挺兵を追い払ったばかりで

あった。いつの間にか、夜が明けている。



 上陸地点の西端、ユタ・ビーチを攻め上げる第12SS戦車師団は、その反対側の端

を担当した第21戦車師団より戦備も良いし、初動も決して悪くなかった。成果に差が

ついたように見えるのは、アメリカのふたつの空挺師団と正面衝突してしまい、これ

を排除するのに時間が掛かったことと、沿岸砲撃が比較的厳しかったことによる。



「海岸に攻勢をかけられるか」「連合軍の沿岸砲撃は重厚です」ヴィットは慎重に答

えた。「フォン=オッペルンは昨日やったぞ」電話を通じて、ヴィットの一瞬見せた

眼光がディートリッヒに伝わったかどうかは分からない。ヴィットは内心、設備の特

に劣悪な第21戦車師団を馬鹿にしていた。それが昨日、ロンメル元帥の陣頭指揮のも

とで大金星を稼いでしまったのである。一方、パリ近郊に留まっているディートリッ

ヒには、連合国空海軍の支援の手厚さがまだ実感できないでいる。



 第12SS戦車師団は、他のSS部隊から転属した古参指揮官を多く擁しているのだ

が、全体としては新米師団と見なされている。NSDAP(いわゆるナチス党)の少年組

織、ヒトラー・ユーゲントの年長の若者をその主体としているからである。その精強

を見せつけたい気持ちが、ヴィットの心に魔を連れ込んだ。「やります」ヴィットは

短く答えると、より海岸に近いところにいるマイヤー准将に連絡を取った。



 ヴィットは師団長であり、マイヤーはそのもとで歩兵連隊長を勤めている。「空を

見ろ。どこを通って移動するつもりだ。地中か」マイヤーの返答は、ヴィットの予想

に反して冷ややかであった。



「夜襲にしよう」

「フォン=オッペルンは昼にやったぞ」

「まだ暗い早朝に移動したのだろう」



 ディートリッヒの台詞をおうむ返しにするヴィットに、マイヤーが食い下がる。よ

り海岸に近いところに進出しているマイヤーは、間断ない砲撃音で神経の休まる間も

ない。士卒の疲労がたまって行くのを肌で感じている。それに・・・



「捕虜の処理が先だ」



 アメリカのふたつの空挺師団は、すでに3000人の捕虜を出していた。この処理のた

めにヴィットの師団はほとんど1個大隊を宛てている。早く後方の2線級部隊に引き

継いでしまいたいのだが、なかなか地域全体のコーディネーションが回復しない。

 先に折れたのはヴィットであった。



「では協議しよう。速やかにサン・メール・エグリーズまで来てくれ」



 マイヤーは肉屋の配達を打ち合わせたかのように、平静に受話器を置いた。

 ヴィットは焦っている、とマイヤーは感じている。マイヤーは武功赫々の勇将であ

るが、功をもって行動の軽重を測らない。



 <役割>



 をいかに演じるかが問題であると思っている。大隊長の役を与えられれば、良い大

隊長として振る舞う。連隊長になれば、連隊長の役柄をよく果たす。それがマイヤー

が自らに課してきたことであった。外部に対して功を誇るなどは後からついてくる結

果である。

 これはマイヤーの美点であり、限界でもあった。エリートとして訓練された者は、

長い教育のどこかで、外部への印象を重視するように条件づけられる。そういった性

向の人間が枢要の地位に一定数いないと、巨大な組織は有機的に機能しないからであ

る。その性向を最大限に活かすには、マイヤーはすでにやや出世し過ぎていた。





 6月7日 午前9時 ポーツマス市(SHAEF前進司令部)



 アイゼンハワーが現在使っている司令部は、キャンピングカーのお化けのような移

動式のもので、1942年に北アフリカで指揮を取って以来愛用している。今日の彼は、

アメリカ空挺部隊の運命について、暗い報告を受けていた。

「第82空挺師団は損害率50%、第101空挺師団は損害率30%です。また、重火器のほ

 とんどは降下の際に失われておりますので、軍団直属の砲兵部隊を配属して支援に

 当たらせております」

 スミス参謀長の口調は、昨日ヤンキースが完封負けしましてね、という以上のもの

ではない。対するアイゼンハワーの表情は、俺はそのヤンキースに200ドル賭けてい

たんだ、といわんばかりである。

「私は思うのだが」アイゼンハワーは口を開いた。彼の克己心は、すでに口調に平静

さを与えている。

「上陸地点で失敗したことより、空挺師団が無力になったことの方が、重大だ」

「同感です」スミスも肯定する。

 ある地域を一気に突破するさい、空挺部隊の価値は計り知れない。アメリカもイギ

リスも程度こそ違え、機材の生産は順調なのに引き替え、人員の補充に悩み始めてい

る。戦争を早期に終わらせるためのツールがついえたことは、重大な政治問題なので

あった。

「再建にどれくらいかかる」

「2ヶ月ですね」数の上では、という台詞をスミスは省略したが、アイゼンハワーには

ちゃんと聞こえていた。熟練した兵士は月単位で育てられるものではない。ましてや、

場合によっては単身戦闘を強いられる空挺部隊は、独立心とプライドにおいて、訓練

や装備以上のものを日々育んでいるのである。一旦喪失した自信は・・・・

 さらに。

 例えばロンドンの緯度は札幌と同じくらいであり、現在の主戦場は日本人の感覚か

らするとかなり高緯度の地域である。フランス沿岸の夏は短く、秋から冬の天候は不

安定となる。2ヶ月先に両師団の戦力が回復したとして、空挺作戦を企画できるのは

せいぜい8月末から9月までであった。これではドイツ軍に決定的な打撃を与えること

は望めない。

 長引くかな、という一言を、どちらも言い出せずにいた。





 6月7日 午後1時 サン・メール・エグリーズ村



「ここは砲兵の仕事場だ。でなければ潜水艦の仕事場だ」

 昼過ぎに、レンガ作りの民家を接収した師団司令部に入ったマイヤーは、ヴィット

に自説を展開しているところであった。

 彼らの対峠する上陸地点ユタ・ビーチは、砂浜の内側に奥行き3キロから4キロの低

湿地が広がり、直線的な、それぞれあまり広くはない道路がその沼地の上で並行して

いる。沼地で長時間布陣すれば、仮眠も取れずに兵士は消耗が激しいが、攻撃側も装

備を濡らしながらのろのろとしか前進できない。先に道路に飛び出した側が、射ちす

くめられて大損害を出すような地形なのである。マイヤーは昼間であれ夜間であれ、

戦車や歩兵で突撃するよりも、十分な準備砲撃が先だと主張しているのであった。

「時間が貴重だ、クルト」

 対するヴィットも正論ではある。むしろいまファーストネームで呼ばれたマイヤー

のほうが、こうした積極論を吐きそうな戦歴を持っている。

「第84軍団に、砲兵を借りられないのか」

 ヴィットは無言でかぶりを振った。

 ヴィットが指揮し、マイヤーが属する第12SS戦車師団は、ディートリッヒ大将の

第1SS戦車軍団に属する。このあたりの一般部隊が属するのはマルクス中将の第84

軍団である。

 現在の指揮系統は次のようなものである。



 ルントシュテット−ロンメル−ドルマン−ディートリッヒ−ヴィット

                   −マルクス−(一般部隊)



 ヴィットは第84軍団とは別の縦割り組織に属しているので、支援が受けづらい。

「軍団司令部の砲兵はどうだ」「道路事情が悪いらしい」

 ディートリッヒの下に、軍団直属のいくらかの砲兵部隊がいる。しかし連合国空軍

が徹底的に交通妨害を行っているため、ノルマンディーに進出できずにいる。ヴィッ

トはたたみかけた。

「現有戦力だけでやる」

 マイヤーはもはや、頷かないわけにはゆかなかった。

 鈍い衝撃を追って、爆発音が司令部に飛び込んできた。「報告しろ」ヴィットが声

を張り上げる。玄関先にいた歩哨が答える。

「航空機の墜落です」「高射砲か」

 歩哨は淡々と報告する。

「味方爆撃機です。大型爆弾を積んでいた模様です」

 爆撃機が積んでいたのは対艦用に開発された一種のロケットだったのだが、歩哨に

はそこまでの知識はない。

 たまに飛んできたと思ったら、と部下の手前口には出さず、ヴィットは肩をすくめ

た。翼に描いた丸のマークは英軍機、星のマークは米軍機、飛んでいなければ独軍機、

という陰口はすっかりドイツ軍将兵に広まっている。もっとも彼らは、しょっちゅう

味方を誤爆する空軍が連合国将兵から「ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍のこと)」と

呼ばれ始めていることを知ったら、どんな顔をしたであろうか。





 6月7日 午前11時30分 パリ、リュクサンブール宮殿(第3航空艦隊司令部)



「こう部隊が多くては覚えきれん」フランス・ベネルクスを担当するドイツ第3航空

艦隊長官、シュペール元帥は、作戦地図を一杯に埋めた見慣れない旗を見て、こんな

第一声を発した。

 陸軍において西方軍が訓練部隊扱いされていたように、第3航空艦隊もまた主戦場

にいる部隊ではないと思われており、多くの戦力を他の地域、なかんずく本土航空

艦隊に引き抜かれていた。本土防空艦隊に移籍した戦闘機部隊の多くは、連合軍の侵

攻があり次第第3航空艦隊に戻されることになっており、そのための飛行場の割当な

どの詳細な計画がすでに出来上がっていた。昨日の夕刻になってようやく移動が始ま

り、新しい旗がそこかしこに林立したと言うわけであった。



「戦果の報告はまだか」「まだです」部下の報告は礼儀を失ってはいなかったが、

活気あるものとは言えなかった。これらの旗が実際に代表するものは、でこぼこの飛

行場、列車の中で滞る資材、足止めされた整備員、そしてばらばらに移動命令を受け

ては連合軍機に途中を襲われる戦闘機の群れであったのである。その現実に想いを致

さない長官も長官であったが、進んで直言しようとしない幕僚も幕僚であった。

 もっとも、この時点から出来ることは限られていたであろうが・・・



「こういうときは、落ちつかねばならん」シュペールはひとりごちると、精いっぱい

厳しい顔をして、ズボンのバンドを引っ張り上げた。空軍総司令官で大兵肥満の”デ

ア・ディック”(ふとっちょ)ゲーリング国家元帥よりも、シュペールはなお横幅が

あった。

「とりあえず、昼食にしよう」シュペールはどたどたと作戦室を後にした。





 6月7日午後9時 ラヴノヴィル村



 ラヴノヴィル村は、ユタ・ビーチの北西5キロばかりにある海岸の小村である。海

岸から沼地を抜けたところにあるこの村は、撤退してきたアメリカ第82・第101空挺

師団の再編のために使われていた。運よく脱出した第82空挺師団のコンラッド中尉は、

薄暗いカンテラの元でも、新しい部下とのコミュニケーション確立に余念がない。

「バーノルズ、次の質問だ。中隊の補給序列はどうなっているか」

「管理班はバット曹長が指揮しており、第1小隊はグレゴリー軍曹、第3小隊はバート

ランド軍曹の担当です、サー」ここであげられたふたりの軍曹は小隊軍曹と言って、

管理班から各小隊への補給など小隊の総務を担当する。

「よくできた。ではこれは誰だ」コンラッドは傍らの軍曹をぐいと押し出した。口ご

もる若い兵士を見て失笑がさざめく。



 多くの上官が戦死して、中尉のまま中隊長として200人近い部下を預かることになっ

たコンラッドであったが、寄せ集められた生き残りたちを有機的に結び付けるにはや

はり時間が不足している。それでも、とコンラッドは思う。優秀な空挺部隊だからこ

そ半日でここまで進めるのだ。

 コンラッドが何かいいかけたとき、聞きまちがえようもない音が、彼らのいる民家

の外で響いた。砲撃の弾着音である。





 6月7日午後9時 ラヴノヴィル村から南西2キロ



「準備砲撃、全車予定数を終了しました」「フォラン(前進)!」

 マイヤーの下知が伝わり、エンジン音の喧噪に、ぎしぎしとしたキャタピラ音が加

わる。各車10発ほどを弓なりに村に打ち込んだあと、突入に移るところである。

 侵攻第1日、連合軍はユタ・ビーチから南へカランタン市に至る道筋を堅く守りな

がら、海岸沿いに北西へ占領地域を伸ばした。ヴィットは師団砲兵の攻撃でユタ・ビー

チを南から攻めると見せかけておいて、前線から引き抜ける限りの戦車を使って連合

軍の延びた側面を突こうとしている。特にこのあたりは、軽装の空挺兵が多く逃げ込

んで来ていて、夜襲の混乱に拍車をかけてくれるはずであった。



 潅木の繁みから大振りの火線が先頭戦車に走り、その側面を焼き焦がす。しかし貫

通には至らない。歩兵用の対戦車ロケットは、装甲に直角にうまく当たらないと、熱

い炸薬が飛び散ってしまって、装甲を溶かしきれないのである。

 ひときわ大きな閃光が村から見えたかと思うと、1台のドイツ戦車の砲塔が轟音と

共に持ち上がり、車体からずり落ちる。連合軍は少数だが大型の対戦車砲を持ち込ん

で来ていて、マイヤーたちにはこれが初見参であった。反撃の戦車砲が村に打ち込ま

れるが、対戦車用の砲弾はあまり爆発力がない。対戦車砲の2発目は先頭戦車の右キャ

タピラを吹き飛ばす。飛散した重いキャタピラ片が周囲の歩兵にも災悪をもたらす。

同時に、村からも短い火柱が上がった。榴弾を込め直したドイツ戦車の第二撃で、対

戦車砲の砲弾に火が回ったのである。

「アントン1、道路脇に避けられるか」マイヤーはキャタピラをやられた戦車に、狭

い道路からはずれろ、と指示する。最後の右キャタピラが起動輪からはずれる寸前に、

どうにか重々しい戦車は進路を譲って生け垣に突っ込んだ。乗員が懸命に脱出してく

る。1人、2人。3人目がハッチから半身を乗り出したとき、対戦車ロケットが戦車のさ

らされた側面を見舞う。3人目−たぶん砲手−は吹き飛ばされて闇に消えた。



 ようやく海岸から、連合軍の砲火の響きが聞こえてくるようになった。弾着は沼地

に散らばり、泥、水、そして人だったものをはね上げる。連合軍はまだ重砲の陸揚げ

が十分ではなく、砲撃はまばらである。位置をさらした重砲には、やや後方に控える

ドイツ軍の自走歩兵砲から反撃があるはずであった。ここには縦深の防衛線などとい

うものはない。村を粗々に制圧したドイツ軍は、狭い道を辿って海岸へ殺到する。

「海岸の大きなものは、なんでも獲物だ」ヴィットの興奮した指示が各車に伝わる。

ヴィット師団長は指揮戦車に乗って攻撃の戦闘に立っていた。沼地へ展開する兵士の

長靴がちゃぷちゃぷと音を立てる。



 マイヤーは、なにか危険なものを感じとった。光? 音? 音だ。高く長い。異様

に長い。遠くから・・・遠くから! マイヤーは近距離用通信機をつかんだ。

「注意しろ。艦砲・・・」マイヤーの指揮用兵員輸送車が爆風で持ち上がる。軽車両

が横転する。沖合いのアメリカ戦艦が、夜間にも関わらず阻塞砲撃に乗り出してきた

のだ。

 戦車が沼地に飛び出して泥に足を取られる。航跡のような泥はねを残して運の良い

戦車が進む。身を隠すところのない沼地で、運を天に任せて歩兵が走る。

 敵は混乱しており、味方は前進している。しかしどちらも十分ではない。連合軍の

戦車がようやく突破地点に到着し始めている。ドイツ軍の戦車の方が撃破される数は

少ないものの、それは貴重な道路を塞ぐ存在となる。

 さっきから各戦車が残弾を無線で知らせ合っているのにマイヤーは気づいていた。

やはり戦力が不足だ。撤退を具申しようと通信機に手を伸ばしたとたん、それがひと

りでにがなりたてた。「歩兵連隊、撤退せよ。戦車連隊、援護しつつ・・・」突然無

線機が故障したかのように、ザザーッとノイズが入って、ぷつりと消える。マイヤー

は立ち上がって、身を乗り出す。

 1台のドイツ戦車が、艦砲射撃で横転しているのが見えた。

 マイヤーは首を引っ込めると、何事もなかったように無線機を取り上げた。「マイ

ヤー准将、一時的に師団の指揮を取る。歩兵連隊は直ちに撤退、戦車部隊はこれを援

護しつつ・・・」

 通信装甲車に同乗するわずかな兵士だけが、すべての指示を終えたあと、マイクを

持ったまま壁に頭をこすりつけるマイヤーの姿を見ることになった。







 第7章 バイエルライン





 6月7日午前8時 バイユー市近郊



 アフリカ軍団の車両がけたてる砂塵は、エジプト国境を越えてもいささかも色を変

じない。どこまでも続く砂っぽい荒れ地で、ドイツ軍はイギリス軍の頑強な抵抗を受

けていた。エル・アラメインを迂回するロンメルの速攻作戦は、高地に陣取るインド

旅団のためについえようとしている。

「膠着したな。ちょっと行ってくる」

 ロンメルが愛用の通信装甲車から飛び降りた。つかつかと敵の方へ歩み寄る。

「元帥、危険です」

 止めようとしたがなぜか体が動かない。ロンメルはヒトラーから届いたばかりの元

帥杖を、高く差し上げる。

 閃光が走った。

 目を開けると、ロンメルが巨人と化している。40メートルはあるだろうか。折しも

飛来したイギリス戦闘機が機関銃を浴びせる。ロンメルは右手をひと振りすると無礼

者を地面にはたき落とし、のしのしとイギリス軍陣地へ向かっていく。



「う、うーん・・・」

「閣下、閣下!」

 当番兵に起こされて、戦車教導師団長・バイエルライン中将は我に還った。不思議

な夢だった。戦前に見たアメリカ映画の悪影響だろうか。

 昨日の疲労が、まだとれていないらしい。バイエルラインは目をこすって、師団の

参謀長を呼びにやった。

 戦車教導師団の分遣隊は、第352歩兵師団と協力して、オマハ・ビーチからアメリ

カ軍を追い落とす大手柄を立てた。しかしその東側のゴールド/ジュノー・ビーチに

陣取るイギリス軍には空海の支援が厚く、ついにバイエルラインの攻勢は頓挫してし

まったのである。

 参謀長は、バイエルラインが必要とする数字を書類カバンいっぱいに持って、バイ

エルラインの無線装甲車にやってきた。戦車・自走砲合わせて28両が失われ、ほぼ同

数が大きな損傷を受けて修理中であった。1日の損耗としては、許容し難い数字であ

る。弾薬の補給はまったく届いていない。バイエルラインは肩をすくめた。これでは

アフリカ戦線と同じではないか。





 6月7日 午前8時 ロシュ・ド・ギヨン(ドイツB軍集団司令部)



 ロンメル元帥はさっきから一言も口をきかずに、OKW(ドイツ軍総司令部)から

届いた指令書を読み返していた。それが重要だからでもあり、読みにくいからでもあ

り、憤激の余りでもあった。

 OKWは、いったん西方軍の幕僚グループとして格下げしたはずの西部戦車集団司

令部を再び指揮序列に組み入れ、ディートリッヒ大将の第1SS戦車軍団をその傘下に

置くことを定めていた。そのもとに、ヴィットの師団はもちろん、バイエルラインの

師団までが組み込まれることになっていたのである。あわせて、新たな戦車軍団司令

部が置かれて、近いうちにソード・ビーチでロンメルと活躍した第21戦車師団を配属

することもうたわれていた。フォイヒティンガーの師団である。

 前線司令部の立ち上がりを待って、ディートリッヒの軍団とすべての戦車師団はド

ルマンの第7軍から離れ、西部戦車集団に直属する。ロンメルの指揮権は残っていた

が、ロンメルと戦車部隊の間には、あの保守的な西部戦車集団司令官・シュベッペン

ブルク大将がはさまってしまった。指示された指揮系統は次のようになる。



ルントシュテット−ロンメル−シュベッペンブルク−ディートリッヒ−ヴィット

                                バイエルライン

                        (編成中)−フォイヒティンガー

              ドルマン−マルクス−(一般部隊)



「第21戦車師団、戦車教導師団が一旦退却して互いに協力可能な位置につくまで、少

なからぬ機会が失われるものと考えますが」

 シュパイデル参謀長が珍しく、自分から意見を述べる。ロンメルの胸中を察したつ

もりであったが、返答はむしろシュパイデル自身よりさばさばしたものであった。

「彼らは海岸近くにいる。それが重要であって、それより重要なものなどないのだ。

シュベッペンブルクも前線に出てくれば分かる」

 海岸近くの布陣を実現したことで、ドイツ軍のために有利なお膳立てはしてやった

のだから、指揮権にはこだわらない、というのである。口では。

「バイエルライン中将への連絡はどういたしますか」

「敵は海岸にいる。増援はしばらく来ない。そう言ってやれ」

 ロンメルの指示は、いつも短い。要点を示して、考えさせるのだ。もっとも今回の

場合、指示が短いのは機嫌の悪いせいであろうとシュパイデルは思った。





 

 6月7日 午前11時 ポーツマス市(SHAEF前進司令部)



 また男を倒した。正義のためだ。建物沿いに走って行くと上に人の気配がする。見

上げざまに2発打ち込むと絶叫と共に男が落ちてくる。弾が心細いので男の銃を奪う。

ぎろりとにらんだ男の視線が動いた。とっさに前のめりに身を踊らせたところをナイ

フが風切って襲い、乾いた大地に突き刺さる。

 向き直って、相手の顔を直視する。見覚えのある顔である。反射的に拳銃が相手を

捉える。あっ射ってはいけない。こいつを射ってはいけない。射ってはいけないが

射ってしまう。ああ射ってしまう。へっへっへっざまあみろ、あっやっぱり射っては

いけない。射ってしまった。でも射ってしまった。とうとう射ってしまった。どうし

よう。へっへっへっ、あっまた射ってしまった。とどめにもう1発射ってしまった。



 アイゼンハワー大将は汗びっしょりになって机の上に起きあがった。眠ってしまっ

たらしい。変な夢を見たのは昨日読んだウエスタン小説の悪影響だろうか。アイゼン

ハワーは周囲を見回す。誰も見ていなかったろうな。自分の夢を見ている他人など居

るわけはないのだが。

 軽いノックの音がして、参謀長・スミス少将が入ってきた。その後ろに伴っている

男の顔は、アイゼンハワーを驚愕させた。

「これから大陸に渡ります・・・お疲れではありませんか。ずいぶん汗をおかきだ」

「いや、どうも、その、イギリスは暑いですな。チュニジアより暑い。あは、あはは」

 なにげないいたわりの言葉も、この男が口にしてアイゼンハワーが聞くと、総司令

官を代わってやろうか、と聞こえる。牧師の息子に生まれたこの男は、どういうわけ

か出世欲と身びいきを人よりずっと多く神から授かってしまったのである。

「戦果を期待しております。私たちの移転場所も、早く作って頂きたい」

 入り用なものは何でも仰って下さい、とはアイゼンハワーはつけ加えない。何も言

わなくとも要求してくるに決まっているからである。

 その男、モントゴメリー大将が辞去すると、アイゼンハワーは大きくため息をつい

て、もう一度周囲を見回した。

 さっき夢の中で、モントゴメリーに3発ぶちこんだところは、誰も見ていなかった

ろうな。





 6月7日 午後1時 ダウニング街10番地、ロンドン(イギリス首相官邸)



 イギリス首相、ウィンストン・チャーチルは、いくつかの数字を示した書類を照合

していた。

 ひとつは、イギリス軍の兵員及び士官の補充余力を示したものである。太平洋の損

害はアメリカ軍に引き受けてもらうとして、とチャーチルは考える。ヨーロッパの戦

争が来年まで長引けば、速成教育の士官の比率が危険なまでに高くなる。人口の少な

いイギリス本国に取って、この戦争はもはや限界であった。一般兵士の状況もそれに

比べてそれほど良いわけではない。少年や老人に銃を持たせようとしているドイツと

違って、イギリスは勝っているのである。あまり極端な動員も出来かねる。

 もうひとつは、昨日の戦闘記録である。チャーチルは統計学者ではなかったが、イ

ギリス軍の上陸地点への空軍の出動が多かったのは彼の目にも歴然としている。アメ

リカ軍はへそを曲げるかも知れない。

 チャーチルは後者の問題を、昨日からずっと考え続けていた。誰かイギリスの高官

がお膳立てをしたはずだ。誰なのか見当はつくのだが、どう処理したものか。

 机の上の電話が鳴った。SHAEF副司令官、イギリス軍のテッダー空軍大将が面会を

求めていると言う。チャーチルはすぐ応じた。いま呼ぼうと思っていたところであ

る。



「モントゴメリーとリー=マロリーの共謀か、あれは」

 テッダーは、空軍の地上支援がイギリス・カナダ軍担当のゴールド/ジュノー・

ビーチに集中した経緯を詳しく報告した。

「誰かが責任を取るべきだと思います」テッダーは、モントゴメリーとリー=マロ

リーの一方または両方を罷免すべきだと示唆した。

「それはできん。イギリスの国益は、誰かが守らねばならん」

「しかし、アイゼンハワー大将が罷免権を行使することになれば、外交上最悪の事

態ではないのですか」2人のいずれとも仲の悪いテッダーは食い下がる。アイゼン

ハワーが内心でモントゴメリーを嫌っていることもテッダーは知っている。

 アイゼンハワーの出自はそれほどエリートと言うわけではないが、士官学校で人望

を集めるにつれ、将に将たるエリートの資質を磨いている。イギリスの貴族社会で成

り上がってきた、人を押し退けるタイプのモントゴメリーとはどうしても肌が合わ

ない。そして会うたびに、アイゼンハワーが一方的に損をするのである。

「テッダー君、次の選挙で保守党から出馬する意志があるなら、私が口添えするよ」

チャーチルはテッダーの政治への口出しをたしなめて、続けた。「アイゼンハワー

は私の承諾なしに罷免などはしない」

「どうしてそうお考えになるのです」

「私が、気に入らないイギリス軍の幕僚は罷免して良い、とあらかじめ言っておい

たからだ」

 テッダーは目を白黒させた。チャーチルの言っていることが分からない。

「つまり私は、アメリカとイギリスの宥和を図る責任をやっこさんに押しつけたの

だよ」

 アイゼンハワーの気質を逆手に取るチャーチルの手並み、というより手口には、

テッダーは呆然とするしかない。チャーチルはぶつぶつと言った。

「私はグレート・ブリテンのために、スターリンと握手した。君は」チャーチルは

テッダーを見る。「グレート・ブリテンのために、モントゴメリーを我慢しろ」





 6月7日 午後3時 バイユー市近郊(ドイツ戦車教導師団司令部)



「時期を失したくありません。今夜の夜襲を許可して下さい」バイエルラインが電話

している相手は、ほとんど面識もない新しい上司、ディートリッヒ大将である。

「第84軍団からも私のところからも支援はないぞ」「我々だけでやります」北アフリ

カではロンメルのもとで、わずかなありものの戦力で戦い抜いたバイエルラインであ

る。兵に拙速ありて遅巧なし、を身に沁みた原理としている。攻勢を勧めるロンメル

の伝言もあった。

「ヴィットの第12SS戦車師団の攻勢を応援して欲しいのだが」バイエルラインの戦車

教導師団はSSの所属ではない。ディートリッヒはそれほど身びいきのきつい人物では

ないが、それでも身内に主役を振り当てたいのは人情というものである。

「我々を穴埋めできる戦力がありません」オマハ・ビーチでアメリカ軍を追い落とし

た第352歩兵師団は戦力を半減させて、今日は再編に余念がない。第一、近隣の部隊

はすべて第84軍団の所属である。

 ディートリッヒは考え込んだ。上級司令部であるシュベッペンブルク大将の司令部

が稼動しない限り、第84軍団を巻き込んだダイナミックな作戦は望むべくもない。一

方、時期を失することの重大さは、バイエルラインほどではないにせよ、ディートリッ

ヒの感覚にも訴えるものがあった。

「了解した」ディートリッヒは折れた。彼は専門的な軍事訓練は受けていないが、組

織運営については豊かな経験がある。ここは現場に任せるときのように思われた。

「貴公の師団を戦術予備に回せるよう、最大の努力をする。それまでは戦線の維持に

努めてもらいたい」

「機動防御を行いたいのですが、許可して頂けますか」バイエルラインは食い下がる。

「いいだろう。やりすぎんようにな。君らにはまだ西の方で仕事がある」SSの指揮官

には、融通の利く人物が多い。ディートリッヒは消極的に、バイエルラインの攻勢を

承認した。敵の攻勢をくじく、という名目なら何をやっても大目にみよう、というの

である。

 電話を置いたバイエルラインは、努めてエネルギッシュな外観を装った。ロンメル

の知略の方は真似できずとも、肉体的な勇敢さは見習いたいと思い続けているバイエ

ルラインである。「持つべきものは、話の分かる上司だな。機動防御が許可された」

「海岸への機動防御ですね」参謀が応じる。「ロンメル元帥が陣頭に立たれるかと楽

しみにしておりましたが、おいでにならないようですね」

 バイエルラインも、陽気に言い返す。「自学自習も、たまには良しだ」





 6月7日 午後3時 カーン市(ドイツ第21戦車師団司令部)



 ソード・ビーチでの勝利の立て役者、第21戦車師団では、間に合わせの鉄十字を描

いた緑色の新戦力が加わっていた。イギリス軍が海岸に残して行った、20台のアメリ

カ製戦車を分捕ったのである。しかしそれでも、師団長・フォイヒティンガー少将は

浮かぬ顔であった。

「戦車と自走砲合わせて57両を喪失!? 我々は勝ったのではなかったのか」

 むっつりと黙り込む戦車連隊長・オッペルン=ブロニコウスキー大佐。師団の作戦

主任参謀が代わって事情を説明する。57両の喪失のうち、戦闘で失われたのは25両で

あった。全体に旧式車両が多い上、身をさらして開けた海岸へ突撃したのだからこれ

は致し方ない。問題はそれ以外の喪失であった。エンジンや駆動系が戦闘機動に耐え

られず永久的にエンコしたのが14両。一時的なエンコや燃料切れで海岸近くに立ち往

生した所を、早朝の爆撃で据え物斬りにされたのが8両。帳簿には載っていたが最初

から出撃不能な状態であったのが7両。そして残る3両は・・・

「砲弾の在庫が払底いたしました。1940年のフランス降伏以来、この型の砲弾は生産

されておりませんので、牽引車または回収車に転用するほかはありません」

 フォイヒティンガーは渋々報告を承認した。「フランス製、ドイツ製、チェコ製、

イギリス製、ロシア製、今度はアメリカ製か」今回戦闘以外で喪失したのは、ほとん

どが1940年に接収したフランス製の戦車か、それにドイツ製−でなければロシア製−

の砲を載せた車両であった。

「再び攻勢に出られるまでに、どれほどかかると思うか」オッペルン=ブロニコウス

キーは師団長の質問を受けて、答えた。「燃料が補給され次第、すぐです」

 深刻な問題であった。連合国空軍が徹底的に交通遮断に出てきているため、補給が

届かないのである。オッペルン=ブロニコウスキーは、思い切った提案をした。

「第716歩兵師団から、燃料を分けてもらうことは出来ませんか」

 フォイヒティンガーは、その一言で10年老け込んだ、という表情で、ゆっくりうな

ずいた。「マルクス中将に提案してみよう」まず無理だな、という無言のコンセンサ

スが座中に広がった。





「どうして第21戦車師団は、上陸第2日にまったく動けなかったのですか」学生は細

かい質問をした。「燃料の融通がつかなかったからだ」教授の返答は短い。「近隣の

部隊から、分けてもらうことは出来なかったのですか」

 教授は答えを整理するのに少し時間を取った。「いろいろなクラスの部隊が、いっ

たん手にいれた装備や物資を手放したがらないのは、万国共通だ。ただドイツ軍では

この問題は他の国より深刻であったかも知れない」学生は首をかしげる。

「ドイツ軍の師団は、エリート部隊と二線級部隊の差が開きすぎていた。標準化され

ていれば、機械的なルールを配分の原則として定めた上で、一時的に特例を作ること

もたやすい。ところが不揃いであればあるほど、お互い納得する配分ルールを見つけ

るのに時間がかかるから、実績にこだわらざるを得ないわけだ」学生は頷いた。

「それと、縦割りの組織が色々ありすぎたこともいけなかった。例えば空軍や海軍が

それぞれ補給のためのトラック部隊を抱え込んでいて、上陸直後の肝心なときにも陸

軍に貸してくれなかったのだよ」

「ひどかったんですね」学生は慰めるような口調になっている。

「連合軍にも色々問題はあったのだが、要所要所に憎まれ役がいて、限りあるものの

配分についてはひとつの筋を通した。もちろんそれが唯一最善の策と言うわけではな

かったろうがね。ドイツ軍は個々には誠実で勇敢な人間が多かったが、すべての努力

をコーディネートする人間の存在を、ヒトラーは決して許さなかったのだよ」教授は

ため息をついた。





 6月7日 午後2時 パリ郊外(ドイツ西方軍司令部)



 パリ西端のブーローニュの森をかすめて、セーヌ川を渡る。自動車で直進するうち、

蛇行するセーヌ川は北へ流れてまた戻ってくる。そこはもうパリではない。ここで南

にハンドルを切ればベルサイユ宮殿があるが、かまわず直進する。ここはもうパリの

中心から20キロ余り、市境からでも10キロばかり。ここがドイツ西方軍司令部のある

サン=ジェルマン=アン=レーである。

 西方軍参謀長・ブルーメントリット中将は、今日の会議の最重要案件をとりあげた。

 西方軍の管轄区域には、10個戦車師団が散らばっている。うち3個師団はすでに戦

闘に巻き込まれており、1個師団にはOKWからノルマンディーへの移動命令が出て

いる。4個師団は大損害を受けて再編中あるいは新編中で、OKWは投入を先に延ば

したがっている。問題はあと2つ、ベルギーの第1SS戦車師団と、アミアンの第2戦

車師団である。どちらも非常に状態がよく、OKWは連合軍の第二次上陸に備えて、

この2つの師団を現在地にとどめる意向である。西方軍は、これに反対すべきか、否か。

 若手から順に、幕僚が色々と意見を述べる。しかし居合わせた誰もが知っている。

この会議の重要人物が誰であるのかを。

「ロンメル元帥、ご意向は如何ですか」ブルーメントリットがさりげなく尋ねる。

座が静まり返る。

「反対すべきではないと思う」若手を中心に、ざわめきが起こる。元帥は強力に移動

を主張すると思っていたのに。

「イタリア半島への上陸の際も、連合軍は陽動作戦としての揚陸を行った。あのとき

はわずかなコマンド部隊に過ぎなかったが、兵力の大小は相対的なものだ。現在ノル

マンディーに上陸してきている3個ないし5個師団が陽動でないと誰が言い切れるか」

 連合軍の情報戦に置ける勝利は数々あるが、地味だが見逃せない大勝利がひとつあ

る。連合軍はドイツ軍にこの時点まで、イギリスに集結した兵力の規模を隠しおおせ

ているのである。ドイツ軍は連合軍が実際よりもずっと大兵力であると言う疑いを捨

てきれずにいる。

 その後も型にはまった議論がわずかの時間続いたが、ほどなくロンメルの意見通り

に落着した。会議を終えて退席しようとするロンメルを、西方軍の若手参謀がつかま

えた。「元帥閣下は、海岸への兵力の集中を望んでこられたのではありませんか」

 はっとして引き留めようとするブルーメントリットを制して、ロンメルはにこやか

に答えた。「補給主任参謀に、尋ねてみ給え。いまブリュッセルからパリまで、まと

まった部隊が移動するのに何週間かかるか」

 ロンメルはそれきり振り向かず、部屋を出て行った。





「ノルマンディーに兵力を集中することを妨げたのは、やはりヒトラーとOKWなの

ですか」

「全般的にはそうだが」教授は意外なことを言い出した。「最初の3日間は、ロンメ

ル元帥も、第15軍を動かせという意見ではなかった」「それは通説と違いますね」学

生はすかさず食いつく。「ロンメル元帥も、第二次上陸がカレーにあると信じていた

のですか」

「ロンメル元帥は何も信じていなかったが、多くの場所を疑っていた。例えば南フラ

ンスの地中海沿岸との同時上陸だ」教授は学者らしい修辞を操ってみせる。「どうせ

第15軍があわてて動き出しても、決定的な最初の3日間にノルマンディーには間にあ

わん」

 教授は学生の理解が浅いと見て取って、さらに説明する。「空軍に移動を妨害され

る、という点でロンメル元帥の現状分析は一貫しているのだよ。上陸軍の体制が固ま

らない最初の数日は特別な意味があるからね。間に合いもしない部隊を輸送するより、

いまいる部隊の補給物資を送ったほうがいい」



「ノルマンディーが連合軍の主な上陸地であることは、じゃあいつごろわかったんで

すか」

「連合軍がもう一度上陸することがありえない、とわかった時点かね」学生は頷く。

「戦争が終わるまで、再上陸の可能性はあった。連合軍は陸上部隊をどれだけ持って

いるのか巧妙に隠していたし、ノルマンディーで使った上陸用舟艇はごっそり残って

いるからね。このころ連合軍は南フランスへの上陸のために多くの艦艇を地中海に回

していたけれども、この舟艇がイングランドにいたら、ボルドーにだってオランダに

だって再上陸はできたさ」学生は泣きそうな顔をした。レポートが出来上がるのは思っ

たより先のことになりそうだ。

「ついでに言うがね。OKWだって、第二次上陸がカレーに違いないなんて信じては

いなかったと思うよ」教授は無慈悲にもインタビューを更に錯綜させる。

「カレーにいちばん近いところにいる戦車師団は、第2戦車師団だった。OKWは上陸

の4日後にはこの師団に移動命令を出している。もっと奥のほうのブリュッセルにいる

第1SS戦車師団はもう2週間ほど留置になっていた。OKWが第二次上陸を用心しては

いたけれども、どこだか確信がなかった印だよ」





 6月7日 午後8時 ゴールド・ビーチ南方



 バイエルラインは最前線のにわか作りの壕に身を潜めて、時計を見ていた。なじみ

のある砲弾の飛来音がする。師団砲兵の支援射撃である。昨日の攻撃で、かなりの損

害を出しているのだが、贅沢は言えない。

 第84軍団のマルクス中将は、バイエルラインの拙速な攻撃への支援を渋った挙げ句、

周囲の軍団直轄の砲兵部隊を支援砲撃に参加させることに同意した。20分間射ち続け

たら、砲兵部隊は反撃を避けてさっさと移動してしまい、以後の支援射撃には加わら

ない。そういう約束であった。バイエルラインは怒りを沸かせなかった。各部隊がバ

ラバラに戦っていた昨日よりは、よほどましだ。



「来た!」報告はそれで十分であった。我々が行かなかったのだから、彼らが来る。

それは確定した未来であった。イギリス軍の前線を緊張の稲妻がかけめぐる。興奮し

た闘鶏の鶏冠のように、イギリス軍の軽機関銃の曲がった弾倉があちらこちらの物陰

から姿を現す。

 イギリス軍は今日1日を陣地構築に費やした。危険な選択である。ブックノール・

クロッカーの両軍団長の脳裏を、前年のアメリカ軍の失敗がかすめたに違いない。

アメリカ軍はイタリアのアンツィオで、上陸直後の展開をためらったために周囲に

ドイツ軍の集結を許し、狭い地域から出られなくなったのである。しかし今度は状況

が違う。連合国空軍は最前線ではなくその向こうで忙しく働き、フランスの交通網を

寸断していた。1日で駆けつけられるまとまった部隊は、ドイツにはなかったのであ

る。イギリス軍は、どちらの消耗が早いかを知っていた。

 照明弾が打ち上げられる。ドイツ軍は昨日攻撃した上陸地点西端のアロマンシュ村

を避け、主力は上陸地点中央のクルイリー村付近を目指している。海軍と空軍に連絡

が飛ぶ。



「照明弾の明かりで爆撃しろだと」イギリス空軍のミッチャー大尉は、陸軍の途方も

ない要求に対する感想を、言葉でなく表情に示した。それを言葉に示していたら、ミッ

チャーは軍法会議にかかったであろう。

「当てろとは期待していない」電話の向こうのぶっきらぼうな声は、さらにミッチャー

を苛立たせた。俺たちの腕を甘く見るのか。「混乱させるだけでいい」

 ミッチャーの飛行中隊は、栄えある大陸移駐の先陣として、海岸にワイヤーマット

を敷いただけの急造飛行場に進出してきていた。その戦闘機部隊に、陸軍は地上攻撃

を要請したのである。夜間に。

「わかった」当時の小型戦闘機にはレーダーなどない。となれば、爆撃がほとんど当

てずっぽうになるばかりではない。滑走路の照明設備が整っていないのに夜間に離陸

すれば、夜明けまで滑走路を視認できないのである。ミッチャーは肩をすくめて、こ

の命令を受けた。そもそも飛行隊の進出を急ぎすぎたのだ。陸軍への義理を果たした

ら、数日前までいたロンドン近郊のタングミーア基地へ舞い戻るとしよう。

 整備兵に所要の手配りをすると、ミッチャーはテントを出た。格納庫も何もないの

で、戦闘機の各部を点検する様子がよく見える。煙草を一服つける時間くらいはあり

そうである。パイロットたちがテントからのそのそはい出してくる。ほとんど与える

べき情報もないブリーフィングのために。



 陣頭に立つバイエルラインは、師団の消耗を感じていた。陸上部隊は前進して来な

くても、連合軍の砲声はきょうの昼間を通して響き続け、兵士の神経を苛んでいたの

である。単なる装備弾薬の喪失以上のものが、師団にのしかかってきていた。

 クルイリー村はスール川のつくる谷間にできた村で、攻防の焦点はむしろその北の

十字路であった。谷間の土手に沿って延びる道が、海岸へ続く道路と交差する。バイ

ユー市とドゥーブル町をドイツ軍が確保している現在、この道路はカーン市へ進撃す

るためのイギリス軍の最後のルートであった。逆にドイツ軍がこの地点を押さえれば、

ゴールド/ジュノー・ビーチの包囲環は閉じるのである。

 上陸以来補給がほとんど届いていないのは他の師団と同様であったが、バイユー市

に相当のものを持ち込めているだけ、他の師団より状況はましであった。小型砲で盛

んに射撃していた小隊長用の兵員輸送車が、逆に狙われて炎上する。敵の戦車が待ち

きれずに位置をさらして、対戦車ロケット弾の数条の光に捉えられる。

 1台のサイドカーが単駆して、バイエルラインの通信装甲車に近づいた。ころがる

ように出てきた兵士が、レント中佐の別動隊の接近を知らせる。夜を待って移動を始

めたレント隊は、夜間の同士討ちを避けるために伝令を送ったのである。バイエルラ

インは副官に命じて、勇敢な伝令の氏名を記録させた。戦闘日誌に記載したからとて

俸給が上がるわけでもないが、ちょっとした名誉のご褒美である。

「抜けないな」バイエルラインはつぶやく。イギリス軍の防御はさすがに堅く、適切

に配置された火砲が互いに支援し合って、十字路をなかなか確保できない。

「中将閣下、危険です!」

 部下の声に、バイエルラインは思わず上空を眺め渡した。



「飲料水です。持って行って下さい」

 整備班長の差し出す小型水筒の蓋を回して、琥珀色の飲料水をぐびりとやったミッ

チャーは、愛機のコクピットに納まった。エンジンが回転数を上げ、うなりを高くす

る。やがて戦闘機はゆっくりと滑走に入った。

 夜間飛行の経験はほとんどない。時折地上から打ち上げられる照明弾で僚機の位置

が見え隠れする。ミッチャーは知らなかったが、上陸作戦は月の出の遅い日を選んで

行われたのである−空挺部隊のグライダーが途中で見つからないように、そして夜明

け前の降下の時分には月が出るように。

 激しく砲火が飛び交う地域が、ミッチャーの目に判然としてきた。どの当たりがド

イツ軍でどの当たりがそうでないのか、とても確信が持てない。

 ミッチャーは思い切って投下を命じた。戦闘機に爆弾を積むことは、1940年にドイ

ツ軍が試みて以来、連合軍でも盛んに行われていたが、ダイブ・ブレーキを備えた急

降下爆撃機とは違って照準は不正確で、移動の妨害やトラック・火砲など脆弱な目標

の攻撃でなければ戦果はあがらなかった。

 盛んに火線の上がっている一角がある。ドイツ軍の対空機関砲らしい。近づいて機

銃でひとなぎにする。接近に気づかれないというのは夜間ならではである。大きな火

炎が後ろに上がる。点呼を取ってみると1機減っている。引き起こしが遅すぎて地面

に激突したらしい。

 もう十分であろう。損害に心を痛めつつ帰ろうとするミッチャーの無線機に、聞い

たこともないコールサインが入ってきた。同時に、眼前に息を飲むような異観が広が

る。

 空から地上へ幾筋もの光明が伸びる。照らし出された地上にまとまったドイツ軍が

いると、光の筋はその周囲でおじぎを始め、ほどなくそこは爆発に包まれる。どうや

ら地上の観測班が艦砲射撃を誘導しているらしい。

 夜間に浮上したドイツの潜水艦を爆撃して沈めるため、機首にサーチライトを装備

した旧式爆撃機の群れであった。どうやらモンティ(モントゴメリー)は沿岸航空軍

団まで動員したらしい。

 思わず見とれるミッチャーの機体に、不快な衝撃が走る。胴体に食らったらしい。

ミッチャーは迷わず風防を開けた。



 イギリス地上部隊は、守る苦しみを味わっている。これで3台目である。またイギ

リス戦車が火柱を吹き上げる。ドイツ軍はどうやら悪魔のような大型砲を持っている

ようだった。これがあのタイガーとかいう怪物戦車か。

 1台が側面へ回り込む。昼間ならばキャタピラを狙いたいのだが、細かい照準がつ

かない。ドイツ戦車は少々ピントはずれの砲弾でも貫通させてしまう。古参下士官は

若い兵士のパニックがいつ起こるかと気が気ではない。

 浮かんだ! サーチライトがドイツ戦車を捜し当てた。なんてことだ。イギリス戦

車の倍は長さがあろうかと言う巨大なドイツ戦車が、ちょうど十字路をふさいでいる。

数発の砲弾が集中する。応じて砲と砲塔が回転する様は、中世の鎧騎士が長柄の槍を

回すようである。撃ってきた! 砲弾は民家のレンガ壁を軽々と引き裂き、立てこも

るイギリス歩兵を吹き飛ばす。不運にも弾薬を幾らかため込んでいたらしく、爆風は

建物中を荒れ狂い、屋根裏の出窓が割れる。

 イギリス兵たちがわが身の不運を呪ったそのとき、目も眩む火炎が十字路に吹き上

げ、怪物戦車の砲塔が軽々と空に舞って、大音響と共に車体側面をずり落ちた。実は

ドイツの新型重戦車にはアキレスの踵のような弱点がある。主砲防盾の下半分が斜め

下を向いていて、たまたまここに敵弾が当たると、真下へ滑って車体の弱い上面装甲

を突き破ることがあるのである。イギリス兵たちは危険も忘れ、壕の縁を叩き、指笛

を鳴らして快哉を叫んだ。



 ミッチャーのパラシュートは民家の庭先へ落下した。スコップを構えた市民が飛び

出してくる。初老の男であった。男はミッチャーの制服を見ると、手を取って家の方

へ引っ張って行こうとする。フランス語のできないミッチャーは戸惑った。「・・・

レジスタンス?」男はどこか曖昧に首を縦に振る。「イングリッシュ?」今度は明確

に首を横に振る。ミッチャーは苦笑いしながら運を天に任せた。

 家の中には夫人と若い娘がいた。男の指示でペンと紙が取り出される。筆談をしよ

うと言うのだ。フランス人は誇り高くて英語を使わないと言う俗説があるが、実は日

本と同じ英語教育上の問題を抱えていて、英語は読めるが作文と発音が苦手、という

フランス人は多いのである。

「アラン・ミッチャー大尉、RAF(イギリス空軍)。海岸の基地に帰りたい」ミッ

チャーの書き込みに男がレスをつける。「今、だめ。リーダーのレジスタンスに指示

を受ける。明日」どことなく語順の座りが悪い。

「あ、あなた、とても幸運」夫人がおずおずと英語を口にする。「他の家、貴方、撃

たれる」男が猛烈な形相で夫人をにらむ。

 娘は黙ったままでいる。1940年以来、学校ではフランス語とドイツ語しか教わらな

いので、英語を書くことも話すこともできないのである。

 気まずい沈黙を破ったのは、男であった。やはり発音がたどたどしい。「イギリス

の爆弾、たくさんのフランス人、殺した。たくさんの家、焼けた」ミッチャーは理解

した。戦闘に巻き込まれたノルマンディーのフランス人の中には、直接の加害者となっ

た連合軍を快く思っていない者も多いのだ。互いに沈うつな表情になった。

 男は、戸棚から瓶とコップを取り出すと、中身を注いですすめた。「カルヴァドス」

酒の名前らしい。オーストラリア生まれのミッチャーには、ノルマンディーの林檎酒

は初見参であった。林檎酒と言っても蒸留酒なので、きつい。

 視界の隅に、ミッチャーの寝床を整えようと階段を上がって行く夫人の姿が見えた。



「これまでだな」バイエルラインは静かに言った。「攻撃開始地点まで後退だ」

 夜明けまでにしっかりした遮蔽物を確保できなければ、本格的な空襲前に撤退する

ほかない。地上では終始ドイツ軍が優勢だったが、海上・上空からの攻撃が着実にド

イツ軍の損害を増して行った。これ以上戦闘すれば、後のないドイツ軍の戦線は崩壊

する危険がある。

 潮が引くように撤退して行くドイツ軍。次第に射撃音はまばらとなって行く。

「中将閣下、差し出がましいようですが」参謀長がささやく。「お休みになっては如

何ですか」何か言い返そうとしたバイエルラインだったが、それがすでに疲労から来

る不機嫌であることに気づき、苦笑いを漏らした。「ではそうしよう」バイエルライ

ンは通信装甲車の細長いシートに腰を下ろすと、すぐに寝息を立て始めた。

 バイエルラインは、ロンメルのように口やかましく、ロンメルのように勇敢であろ

うと努めてきた。彼にはロンメルの機転は備わっていなかったが、これは致し方がな

い。可能な限りにおいて、彼の手本はロンメルであった。戦場において、5時間以上

は決して眠らないロンメルの真似をすることは、非常に難しい。参謀長が気を揉むゆ

えんである。

 少なくともバイエルラインが、誠実な上司として部下に敬愛されていることは、確

かであった。





 第8章 シュベッペンブルク



 6月8日 午前9時半 バリ



 西方戦車集団司令官・シュベッペンブルク大将は、決して空理空論の徒と言うわけ

ではなかった。むしろ彼の主張する作戦は、ドイツ軍の長い経験に裏打ちされた正統

のものであった。戦車部隊を海岸近くに押し出して移動の自由を奪うロンメル元帥の

主張は、1939年以来ドイツ戦車部隊がかち取ったすべての成果を否定するようなもの

だったのである。

 いま彼は、その自分の主張を試す機会を与えられたところであった。ノルマンディー

に展開するすべての戦車部隊は彼の指揮下に入る。戦車部隊は独自の機動の自由を与

えられ、統一的な指揮を受けて集中運用されるのだ。

 にわか仕立ての自動車キャラバンが、彼の司令部の機材と人員を一杯に積んで、ま

さにパリを出発しようとしていた。シュベッペンブルクは名残惜しげにパリの風景を

目に焼き付ける。その顔立ちは武人としては柔和といえるほどである。



 感傷に浸るシュベッペンブルクの心情に、無粋なクラクションが割り込んだ。むっ

として振り向いたシュベッペンブルクの顔は、無表情に凍り付いた。なぜ彼がパリに

いる。いや別に不思議なことではなかった。パリの会議はしょっちゅうあるのだ。

「どうやら間に合った」自動車を下りたロンメルは何の屈託も見せず、論敵と笑顔で

握手した。「都合出来る限りのものは都合するが、あまり期待しないでくれ」シュベッ

ペンブルクは一部のエリート部隊(つまり戦車部隊)を指揮するに過ぎないから、周

囲のロンメル指揮下の部隊になにくれとなく支援を仰がねばならない。ロンメルはそ

のことを言っている。聞きようによっては失礼な物言いである。

「司令部が決まったら、知らせてくれ」シュベッペンブルクが反撃の機会をつかめな

いまま、ロンメルは疾風のように次の用務先へ向かおうとしていた。「会議ですか」

「クランケがパリに戻ってきたのでな」ロンメルはかっきり2秒間、2度目の握手をす

ると、自分の乗用車に戻って行った。



 海軍西方部隊司令官・クランケ海軍大将は、大戦初期に小型戦艦シェーア号艦長と

して通商破壊で名を成した人物である。フランスのドイツ海軍はすべて彼の指揮下に

あるわけだが、いま彼のもとにあるのは、ずたずたになったUボート部隊、数十隻の

魚雷艇と数隻の小型駆逐艦、いくらかの砲台と砲兵、訓練中の海軍兵士、そして数百

台の輸送用トラックといった、昔海軍であったものの雑多な残り屑であった。

 長年交易の途絶えたドイツではコーヒー・紅茶が払底して、ロンメルとクランケの

前に供されているのはミルクである。「最近は浮上中のUボートが空から爆雷を落と

されるケースが増えましてね」クランケの口調は淡々としている。対策は打ち尽くし

た、という風情である。「ビスケー湾ももう安全ではないのです」ビスケー湾とは、

要するにフランスの大西洋沿岸のことである。

 当時の潜水艦は、水上を航行すれば水中の倍のスピードが出るし、換気のためにも

夜間は浮上することが多かった。連合軍は旧式爆撃機を盛んに投入して浮上中のUボー

トをつけねらい、直接護衛の充実と相まってその封じ込めに成功しつつあった。



 なごやかな雰囲気は議論が本題に入っても維持されたが、議論はそれに先立つ雑談

と同じように何の成果も生まなかった。ロンメルは訓練中の海軍水兵も、自動車も、

なにひとつ分捕ることは出来なかったのである。フランスのドイツ海軍基地はどれも

みな健在であり、健在であるうちはその当然の付属物を陸軍には渡せない。クランケ

の言い分はこうであった。

「ラング、私はときどき思うのだが」帰りがけの車内で、ロンメルは運転席の副官に

話しかけた。「連合軍では陸海空の協力をどう取り付けているんだろう」







 6月8日 午前10時 

 オックスフォード市(イギリス第2戦術空軍 第84グループ司令部)



「12時になったら、1個中隊を哨戒に出してくれ。ゴールド・ビーチからバイユーまで」

管制官・ジャーヴィス中佐は、ソーニー・アイランド基地に簡潔な指示を与えた。12

機の戦闘機中隊が何か獲物を見つけたときは、この作戦室からソーニー・アイランド

の第123航空団、あるいは別の航空団に、追加の飛行中隊を差し向けるよう指示が飛

ぶ。数百機の大所帯であるグループにこのような調整機能を与えるのは、ドイツ空軍

の無力なフランス上空ではやや現状に合わなくなってきていた。

 それにしても、とジャーヴィスは思う。モンティ(モントゴメリー大将)は空軍が

すっかり敵をミンチにしてから、スプーンだけつきだそうと言うつもりか。アフリカ

戦線で黙々とモントゴメリーを援助して、結局手柄を独り占めされたテッダー大将が

奴を嫌うのは当然だ。いましがた発した指示も、地上部隊の侵攻経路からドイツ軍を

一掃する命令である−地上部隊の侵攻経路に高射砲がいるかどうかは、誰も尋ねてく

れないのだ。いるに決まっているのだが。

 哨戒が始まると忙しくなる。ジャーヴィスはコーヒーを飲みに外へ出た。ゴールド・

ジュノー・ソードの3海岸の上陸部隊を統括するイギリス第2軍もつい最近まで同じ

建物に司令部を置いていたが、一足先にゴールド・ビーチへ渡ってしまって、喧噪が

半分になってしまっている。

「危ういバランスだな」ジャーヴィスはふと口にした。陸・海・空のバランス。国と

国のバランス。ジャーヴィスは、アイゼンハワーをはじめ一部の将軍が、特定のヒー

ローを作らぬよう腐心を重ねていることを知っていた。その努力がちょくちょく危機

にさらされることも。

 ジャーヴィスは、現状がせめてもう半年ばかり保たれることを願った。長くても、

今年のうちには戦争は終わってくれるはずだ。ヒトラーもそれほど馬鹿ではあるまい。





 6月8日 午後4時 テュリー・アルクール村(カーン市南方30キロ)



 鮮やかな縞模様を描いた連合軍の戦闘機は去って行った。これで7回目の退避か。

シュベッペンブルクは腹を立てていた。行程が遅れるからではなく、ロンメルの現状

認識が正しかったことに。

 今日はノルマンディーのどこかの小さな村に落ちつき、明日ディートリッヒを招い

て会談する。師団長たちも来るはずだった。

 戦車部隊の真骨頂はその機動性にある。徹底した空からの移動妨害で機動性を失っ

た戦車部隊をどう使ったらいいのか、シュベッペンブルクには見当もつかなかった。

とにかく部隊を集結させるのだ。すべてはそれからだ。

 オルヌ川の谷間に沿ったこの村は、無線による指揮が困難である。もっと開けた丘

陵でないと困る。シュベッペンブルクは地図に見入った。

「ここはどうでしょう」参謀長が指さす。ラ・ケーヌ。なだらかな丘の連なる小村で、

カーン市との交通もまずまずである。直線距離で5キロか6キロだが山をひとつ回らね

ばならない。

「行ってみよう」シュベッペンブルクは腰を上げた。





 6月8日 午後3時 ロシュ・ド・ギヨン(ドイツB軍集団司令部)



 ロンメルは、見事な飴色をした丸テーブルに、無造作に報告書を散らばらせた。昨

日まで執務室にあった、ひたすら重厚で細工の行き届いた机は、ありうべき空襲を避

けて地下室に運び込まれている。ナットの勅令? ナントの勅令? とにかくそいつ

を廃止する署名を、何代前だかのこの城の当主がその机の上で行ったのだそうだ。代

わりの机も決して粗末なものではなかったが、フランスの国宝の上でインキ壷をひっ

くり返す悪夢からはとにかく解放されたわけだ。

 ロンメルの司令部のあるロシュ・ド・ギヨンはロシュフォール公爵家累代の持ち城

で、ロンメルとわずかな参謀たちはフランスの文化遺産に囲まれて暮らしている。軍

事以外に関心の薄いロンメルにはあまり有難みはなかったが、前の司令部であったボ

ンパドゥール夫人の旧宅を思えば、まだしもであった。それに、セーヌ川を見おろす

庭の眺めは良い慰めになってくれている。

 シュベッペンブルクは、オマハ・ビーチでの損害からようやく立ち直った第352歩

兵師団をヴィットの−後任はまだ発令されていない−第12SS戦車師団と交代させる

ことを要求してきていた。シュパイデルが裁可を求める。

「承認しよう。しかし」ロンメルはシュパイデル参謀長にぼやく。「SS師団が攻撃

位置につくまでに、1日かかってしまうぞ」シュパイデルは静かにコメントする。「O

KWがシュベッペンブルクに伝統的な用兵を期待しているようです」シュパイデルは

ロンメルの意を汲んで、シュベッペンブルクの方針を「伝統的」と揶揄した。

「3日間が勝負だと思っていたが」ロンメルは報告書の束をシュパイデルに返しなが

ら言った。「最後の夜はシュベッペンブルクが台無しにしそうだ」

 最後の夜にロンメルが指揮権を存分に振るえたとしても、連合軍の圧倒的な艦砲射

撃の傘を突き破れるものではないことは、すでにロンメルにも分かっていた。





 6月8日 午後9時 サン・マルティン・ド・バレヴィル村



 夜になっても、アメリカ第4歩兵師団司令部の周囲は忙しく往来があった。ようやく

確保した地域が広がってきたので、重装備の揚陸が始まったのである。その往来をぬっ

て、杖をついた老人が師団司令部のテントへと一直線に歩いてくる。奇妙なことだが、

軍服のはっきりしない薄暮の中でも、周囲の兵士たちは誰何の声をかけようとしない。

上陸初日にユタ・ビーチを歩き回ったこの老人の姿は、すべての兵士の脳裏に焼き付

いていたのである。

「やあ、セディ。ちょうど良かった」師団長・バートン少将に迎えられた老人の名は、

セオドア・ルーズベルトという。別に日露戦争当時のアメリカ大統領の魂が現世に蘇っ

たわけではない。同姓同名、しかし実際に親戚ではある、第4師団の師団長補であった。

師団司令部に来客があるらしい。

「元気かい。報道班の連中が、君の話を聞きたがっていたぞ」第7軍団長・コリンズ中

将は快活に握手の手を差し出した。「次の大統領選で誰に投票するか、知りたいんで

しょう」ルーズベルト准将は、ホワイトハウスにいる親戚とは違って、共和党員であ

る。

「ユタ・ビーチには第4師団、第9師団が上陸を完了した」そしてコリンズの軍団司令部

も海を渡ってきた。「明日には第90師団がやってくる。面倒を見てやってくれ」コリ

ンズの言葉に全員が声を立てずに笑う。第90歩兵師団は、実戦経験が不足しているの

だ。アメリカ軍の人的資源は比較的潤沢であったが、経験を積んだ中級指揮官の層の

厚さはドイツに及ぶべくもなく、それらに率いられた新兵は実力を発揮することが出

来なかった。

「気になることがあるのですが」「オマハ・ビーチのことか」ルーズベルトの台詞を

コリンズが先取りする。「ゴールド・ビーチの西の端をアメリカ軍が受け持つことに

なった」戦線をつなぐ努力はされるらしい。アメリカ軍の勘定で。「ジーは留任だ」

「それはよかった」ルーズベルトは静かに喜びを口にする。オマハ・ビーチを担当し

たジェロウ中将は更迭される危険があった。

「ところで、オマハ・ビーチの夜はもう少し騒がしいと聞いていたぞ」バートンが苦

笑する。「強力なSS師団が、今し方次々に戦線を離れたと報告を受けています。大

規模な攻勢の準備でしょう」入れ違いになって、バートンの報告がコリンズの目にま

だ触れていないらしい。「それでは、私は司令部に戻った方がよいようだな」コリン

ズは笑顔で挨拶を交わすと、軍団司令部に戻って行く。

「何の御用だったんです」ルーズベルトが尋ねると、バートンはいたずらっぽく笑っ

た。「さあね。やっこさんはあんたの話しかしなかったし、あんたの方ばかり見てい

たぞ」「はあ?」「昇進するということだと思うな」バートンはズバリと言った。

「57才にもなって、昇進ですか。名誉除隊じゃないでしょうな」ルーズベルトは照れ

笑いした。





 6月9日 午後1時 ポーツマス市(SHAEF前進司令部)



「ドイツ空軍の抵抗が弱体なわけが、やっと分かりました」ワーキング・ランチの席

で、スミス参謀長が何気なく切り出した。すでにアイゼンハワーはコーヒーを飲んで

いる。

「ドイツ空軍はフランスの戦闘機部隊を、本土防衛のために引き抜いていたのです」

アイゼンハワーは有名なにやにや笑いを小出しにした。「本土の戦闘機部隊がいっこ

うに減らないので、スパーツが不思議がっていたな。それで、今はどうなっているの

だ」

「フランスに戻そうとしていますが、うまくいっていません。我が軍は多くを途中で

撃ち落としていますし、着いた部隊は燃料と整備員の要求ばかりしています」後半は

例によって暗号傍受の成果である。

「まったく過剰保証だったわけか」アイゼンハワーは散々にドイツ空軍の脅威を部下

たちから−なかんずくリー=マロリーから−吹き込まれてきたのだったが、無駄だっ

たらしい。

「そうでもありません」スミスはつい言い足して、アイゼンハワーの食後のくつろぎ

を台無しにしてしまった。

「ドイツ空軍が要求しなかった戦力は、モントゴメリー将軍が要求しておいでです」





 6月9日 午前10時 ラ・ケーヌ村(ドイツ西部戦車集団司令部)



「躊躇している場合ではない」ディートリッヒは午後からの攻撃を主張した。「今日

かかるのでなければ、全面的な防御に移るべきだと思う」シュベッペンブルクは煮え

きらない顔をしている。申し入れている弾薬・燃料の補給ははかどらないし、統一し

た作戦会議を開くのは今日が初めてなのである。

 普段は上級者に逆らわないフォイヒティンガーも、補給の話となると口を開く気に

なる。「補給が届くスピードよりも、既存の燃料集積所が爆撃されるスピードの方が、

残念ながら上回っています」

「バイエルライン将軍はどう考えるか」シュベッペンブルクに問われて、バイエルラ

インは重い口を開いた。何と言っても、独断に近いかたちで攻撃に踏み切り、戦力を

減らすだけに終わったのだから、肩身が狭い。

「連合軍は確保地域を広げつつあります。重砲の本格的な陸揚げが始まらないうちに、

連合軍を押し込めるべきです」

 さきほどディートリッヒを通じて師団長に発令されたばかりのマイヤーは、むっつ

りと無言である。「マイヤー将軍」「我が師団は第352師団と交代、艦砲射撃の最も

激しい海岸寄りに布陣を完了しています」マイヤーは静かに言い放つ。「攻撃開始が

遅れれば、我が師団の戦闘力はそれだけ低下します」シュベッペンブルクが野放図な

物言いに眉を上げたが、マイヤーは気にとめた風もなかった。

 第47戦車軍団長、フンク中将が男爵らしく鷹揚に座をまとめる。「表現こそ違え、

みなさん積極的な攻勢をお望みだ。司令官閣下は、どうお考えかな」フンクは第21戦

車師団と、第15軍管区にいる第2戦車師団を傘下に持っているが、形式上のことで、

戦闘指揮や補給は地域の軍団に任せている。いま大あわてで体制を整えているところ

であった。

 師団長・軍団長が揃って即時攻撃を主張したとなると、シュベッペンブルクも折れ

る他はない。「よろしい。あとは・・・」シュベッペンブルクは空を見上げた。

 今日はDデイ以来初めて、朝から曇天続きである。





 6月9日 正午 ルマン市(ドイツ第7軍司令部)



 第7軍参謀長・ペムゼル少将は、第7軍管区全域から引き抜いたノルマンディーへの

増援の状況を把握する果てしない戦いから、一旦撤退することにした。テーブルの上

の作戦地図は、訂正をちらほら含んだ雑多な書き込みに占められている。ペムゼルは

情報参謀に作戦地図の管理を委ねた。「報告を受けたらまず別の紙に書いて置いてな」

ペムゼルは重要な戦訓を伝える。「5時間経って、それまでに矛盾した報告がなけれ

ば、地図に書き込むんだ」

 第7軍司令官・ドルマン大将のもとへペムゼルが現れたのは、それから間もなくの

ことである。「第7軍での机上演習の結果を、シュベッペンブルク大将閣下に伝えま

すか」「要らんだろう」ドルマンはそっけない。「要点は西方軍に報告したし、今か

らでは吟味する暇はあるまい。まあ掛け給え」ドルマンは椅子を勧める。

「ここだけの話だが・・・シュベッペンブルクは職務を全うできるだろうか」



 ペムゼルが返答に窮している間に、ドルマンはひとりで続けた。

「彼は長いことこの戦域にいる。彼は権限と責任を長いこと欲してきた。ちょうど彼

がいま持っているような類のものだ。しかしそのときの準備を、誰がしてきたかね」

 私は椅子です、といわんばかりの無表情を決め込むペムゼルに、ドルマンは初めて

苦笑を漏らす。「わしはロンメル元帥の考えを知っている。理解するのに長いことか

かったがな」ドルマンがにやりとしたので、ペムゼルも釣り込まれた。海岸防衛への

取り組みを巡って、ロンメルはドルマンの理解と協力を取り付けるため、何度もノル

マンディーまで足を運んだのだ。ロンメルの主張は大胆で破天荒であったし、老境の

ドルマンは飲み込みの早い生徒ではなかった。

「わしはシュベッペンブルクがロンメルは間違っていると言ったのを知っている。で

はシュベッペンブルクはどうすべきだと言ったのか。わしは知らん。わしが知らんく

らいだから、最近やってきた師団の者はみな知らん」バイエルライン、マイヤーらの

ことを言っているのである。「ロンメルの言いそうなことならわしにも言える。現在

地から海岸へ向かって前進!」ペムゼルはドルマンの頬が紅潮しているのに気づいた。

血圧が上がっているのではないか。こんなドルマンは珍しい。

「正しいか正しくないかを言っているのではないぞ。方針はひとつでなければならん、

ということだ。こういう混乱の時期にはな」さっきまで悩まされていた作戦地図を思

い浮かべて、ペムゼルは思わず頷いてしまった。しょっちゅう連絡が途絶して、いろ

いろなレベルの個人が自分の判断を強いられるのだ。



 ドルマンが急に押し黙ったので、ペムゼルはその顔を見た。重圧と苦悩の影がどす

黒くドルマンの顔を染めている。連合軍が彼の海岸に上陸したと言うのに、その対策

が彼の頭の上で揺れ動いているのである。

「閣下、よくお休みになっていますか。体力を保つことも軍人の職務です」

 ペムゼルはドルマンをあやすように言った。





 6月9日 午後1時 ゴールド・ビーチ



 ラ・リヴィエール村(現ヴェール=スール=メール)は非常に立て込んだ状況で

あった。第21軍集団司令部・第2軍司令部・第30軍団司令部・第50歩兵師団司令部が

ストレートフラッシュのように小村にひしめいているのである。明らかに第21軍集団

司令部を率いるモントゴメリーが、早く大陸第一歩を記そうと焦った結果であった。



「海軍が帰っただと」モントゴメリーは憤然と報告を聞いた。

「弾薬の払底による一時的なもので、大型艦が次々にイングランドへ帰投しています。

ここのところ夜間の支援要請が多かったものですから」イギリス第2軍司令官・デン

プシー中将は、モントゴメリーの不機嫌にはすっかり慣れていた。「ドイツ軍の攻勢

が予想されているこのときにか」シュベッペンブルクの司令部が盛んに攻勢の準備を

行っていることは、暗号電報の解読で連合軍に筒抜けであった。「この天候を見ろ!

海からも陸からも支援がなければ、我々は裸だぞ」デンプシーは更に我慢した。



「しかし、我々はすでに・・・」デンプシーが何かいいかけたとき、砲声が遠くで轟

いた。「あれはなんだ」「友軍のものではないようです」すでに参謀たちは、現況を

把握するための指示をきびきびと出し始めていた。





 午後1時。この攻撃開始時間が、すでにシュベッペンブルクの敗北を予兆している

ように思われた。いくら曇天とはいえ、いつ晴れ間が出るか分かったものではないの

である。

 自らを野戦指揮に不向きと悟ったフォイヒティンガー少将は、オッペルン=ブロニ

コウスキー大佐に現場の指揮を委ねてしまった。相変わらずの補給状況を改善するの

に専念するためである。

 いよいよ砲声が始まった。イギリスの空挺部隊が苦労して運んできた軽量砲が捕獲

されて、ドイツの戦列に加わっている。上陸当日にはカーンの弾薬庫にあった使い捨

てロケット弾も、今日は凶々しい音を立てて敵陣に向け弧を描いていた。

 5分後、砲撃は小降りになった。準備砲撃の時間が短いのは、弾薬が不足している

ためである。オッペルンはフォイヒティンガーから借り受けた通信装甲車で、マイク

を取り上げた。

「聞け! オッペルン=ブロニコウスキー大佐、師団長の命により戦闘団の指揮に任

ずる。戦車前進!」

 捕獲したアメリカ製戦車を戦闘に、雑多な車両群がクルイリー村に通ずる道を北上

し始めた。ゴールド・ビーチからカーン市に続く街道を逆進して、イギリス軍の伸び

てきた先頭部分と戦うのが彼らの受け持ちであった。





 バイユーから海岸まで20キロばかり。そのわずかな距離が、まったくと言って良い

ほど縮められずにいるバイエルラインである。今日はマイヤーがアロマンシュ村を目

指し、バイエルラインはバイユーまで後一息と迫ったイギリス軍を押し返して海岸の

中央部を陥れる。非常に結構な計画であったが、艦砲射撃を軽視し過ぎている、とバ

イエルラインは思ってしまう。若い部下の中には、艦砲射撃でノイローゼ状態となっ

ている者も大勢いた。

 砲弾が風を切る音が近づいてくる。だが艦砲ではない。聞き覚えのあるこの音は、

あの・・・

 どどどどどぉぉん。ばばぁん。ばりばりばりぃん。

 着弾盛んである。イギリス軍の支配地域が十分な奥行きを持ったので、榴弾砲を陸

揚げする余裕が出来たのであろう。モントゴメリーはこういうとき、弾薬を惜しまな

い。バイエルラインは北アフリカの戦いで、それを身に沁みて知っていた。





 2台の戦車がイギリス軍陣地に突っ込んできた。大きい! あれがタイガー戦車か。

連合軍の使うアメリカ戦車とはまるで異なっていた。次々に対戦車ロケットが浴びせ

られるが、張り巡らした薄い補助装甲板で威力を減殺されてしまう。

 歩兵も連れず、戦車だけで突っ込んでくるとはよい度胸である。若いイギリス兵が、

車体の上に手榴弾を転がしてやろうと、側面から戦車に忍び寄る。

 ぽん、と小さな音がした。兵士も、それを心配げに見ていた仲間たちも、兵士の足

元に落ちた小さなものと、その邪悪な意図に気づいた。

 だが、遅かった。兵士は手に持った手榴弾もろとも閃光の中心を成し、あとには赤

い影だけが残った。後で分かったことだが、ドイツ戦車には近接防御兵器があって、

砲塔上部の穴から特製の爆薬をスプリング発射できるのだ。

 歩兵の所在を知ったドイツ軍の後続戦車が、援護射撃をたたみかける。突入してき

た戦車は罠の弾き役なのである。ついに辛抱しきれず、巧妙に隠してあった対戦車砲

がドイツ戦車を捉える。1台の砲塔の付け根に当たった弾丸は、どうやら砲塔を回ら

なくしたらしい。戦車はそのまま車載機銃を射ちながら対戦車砲陣地に突っ込み、す

べてを蹂躙する。後続の戦車も次々に現れた。難敵なし、と踏んだらしい。

 砲弾の飛来音がする。友軍だ。村の周囲に隠れた観測班が誘導しているのだ。まだ

試し射ちだが、じき本格的な射撃がくる。ドイツ軍は前進を焦っているようだ。なま

じ退却すると、友軍誤射の心配なく射ちたいように射たれるからである。

 観測班がゴーサインを出したらしく、榴弾砲がいよいよ本格的な射撃を開始した。

タイガーが2台ほど上部に命中弾を食らって爆発する。だが村に入ったタイガーは建

物をゼロ距離射撃している。これまでか。

 おかしい。戦車が村の外を射撃している。救援だ! 友軍の戦車部隊だ。



 マイヤーの師団で戦車連隊長を務めているのは、ヴュンシュ中佐である。男も惚れ

る美形の彼も、さすがに連日連戦で目が険しくなっている。

 村の歩兵部隊の頑強な抵抗は排除されたが、榴弾砲の阻塞射撃は激しく、敵の戦車

が迫ってきた。村に先着した今、敵戦車は取り立てて恐ろしい敵ではないが・・・

 すでに5、6両のイギリス戦車が煙を上げている。なにしろ物陰が多い地形なので、

先に仕掛けると痛い目に合う。しかし、行く他はなかった。さらに海岸に迫り、アロ

マンシュ村を抜いて海岸を掃射する。明日以降のことを考えている余裕はない。

「後は歩兵に任せて、前進する」ヴュンシュは戦車を呼び集めた。



 だめだ・・・あの大きなドイツ戦車にはかなわない。ホーンブロワー大尉は自分に

認めた。ここで海岸をドイツ軍から守れる者は我々だけだと言うのに。

 退却する彼の中隊をドイツ戦車は追走してくる。時間がない。すぐドイツ戦車がやっ

てくる。何とかドイツ戦車をここで防ぐ法はないものか。防げればいい。止められれ

ば。

 そうか! ホーンブロワーは、自分のとっさの思いつきに苦笑した。あとで軍法会

議にかけられるかもしれないが・・・



 前方の2台の戦車は、数発の命中弾を浴びてあっけなく炎上した。その2台の様子が

おかしいのに最初に気づいたのは、ヴュンシュ中佐であった。「ユルゲンセン、見ろ。

キャタピラだ」ヴュンシュは配下の大隊長に確認を求める。2台の戦車は道路をびっ

ちりふさいでおり、しかも奇妙なことに、キャタピラがそっくりはぎ取られていた。

いや車体の下にキャタピラが少しのぞいている。臆病なトミー(イギリス兵)どもは

戦車のキャタピラをはずしたまま前進をかけ、キャタピラをわざと取り残したのだ。



 道の両側はちょっとした土手になっていて、潅木が生い茂っている。キャタピラの完

全にはずれた戦車をずりずり引っ張って後戻りすれば、時間を食ってしまう。ヴュン

シュがためらっているとき、すっかりなじみになったイギリスの榴弾砲の弾着が始まっ

た。縦列が混乱する。



 ホーンブロワーは、ドイツ軍が退却して行くのを潅木の繁みの中で、主にキャタピ

ラ音から聞き取った。危ないところだった。歩兵がついてきていれば、繁みの中の彼

らは発見されたかも知れなかった。生け垣や林の多いノルマンディーは、戦車に取っ

て都合のいい地形ではない。特に攻撃には。

 これがドイツ軍の今日の攻勢の転回点になろうとまでは、ホーンブロワーには知る

由もなかった。





 最も装備の劣悪な第21戦車師団は、連合軍の戦車部隊と正面からぶつかり、早々と

戦闘力をなくしていた。その戦車部隊を側面から衝くかたちの戦車教導師団に再び期

待がかかる。今度は不自由な夜襲と違って、十分な時間があるはずであった。

 セオリー通りに壕に埋められた対戦車砲が火を噴く。突撃砲の斜めになった前面装

甲はそれを弾き飛ばす。そのまま前進を続ける突撃砲。壕を乗り越えた突撃砲はめり

めりと対戦車砲を押しつぶし、急いで逆進をかける。わずかに見せた薄い下面に幸運

な一弾がめり込み、突撃砲は陣地の全員と運命を共にする。車内弾薬の誘爆した炎が、

命中孔から陣地めがけて吹き出し、対戦車砲の弾丸が誘爆したのである。

 榴弾砲の着弾はますます増大する。戦車の被害は少ないが、随行する歩兵や軽車両

が次々に損害を受ける。ドイツ戦車の視界は、生け垣、果樹、潅木に絶えず遮られ、

折角の主砲の優位が生かせない。

「閣下、後退して下さい」通信装甲車で相変わらず先頭近くにいるバイエルラインを

退避させようと、幕僚が説得する。「危険なのは皆同じだ」この瞬間、バイエルライ

ンはロンメルになりきっていた。

 しかしバイエルラインはロンメルほど強運ではなかった。至近弾にあおられて、通

信装甲車が横倒しになったのである。バイエルラインはオープントップの装甲車から

放り出され、腰を強打して悶絶した。周囲の歩兵がここぞとひっ抱えて、突撃砲の車

体に迎え上げる。突撃砲は回転砲塔がなく、上部が平べったいので、けが人を運ぶの

に都合がよい。

 状況は戦車の無線機から指揮系統を伝って、ゲルハルト大佐に届く。「歩兵抜きで

海岸には届かん・・・撤退しよう」ゲルハルトは先任の大佐として、師団に退却命令

を出した。

 ロンメル元帥もお許しになるだろう、という一言は、兵士の手前遠慮したのだが。





 6月9日 午後6時 ロシュ・ド・ギヨン(ドイツB軍集団司令部)



「シュベッペンブルクが失敗したようです」シュパイデルは淡々と報告した。「互い

に大きな損害を出しましたが、海岸には達しませんでした」

「艦砲射撃か」「そこまでは、まだ。それから、バイエルライン将軍が負傷されまし

た」

 ロンメルの冷静さが、ほとんど破られた。「詳しいことが分かったら、知らせてく

れ」「はい」「無理をしおって・・・」ロンメルは最高位者の特権として、自分のこ

とは棚に上げた。

「さらなる攻勢の準備をすべきでしょうか」「損害の程度にもよるが、今回の攻勢を

逃せば、もはやチャンスはあるまい」ロンメルの感傷がそそくさと小さな住処に戻り、

作戦用の理性が闊歩を始める。「夜間の機動防御を行えば、急には戦線は崩れないだ

ろうが・・・」ロンメルは顔を上げた。「すべての戦車予備をノルマンディーに送る

べき時が来た。できれば本国の戦略予備も投入したい。第15軍の拘束も解くべきだと

思う。直ちに西方軍と協議の手はずを整えてくれ」「承知しました」このあたりの遠

慮のなさがロンメルの嫌われる所以である。君子豹変して凡百を教化するならまだし

も、相手は上級司令部なのである。

 ロンメルは声を低くした。「君の友人たちは、この状況にあっても計画をやり遂げ

るつもりか」「もちろんです」ロンメルは、ヒトラー暗殺計画の全貌を知っているわ

けではない。シュパイデルは慎重に、ロンメルを計画の外周に止めていた。ロンメル

は事変後の収拾役として期待されているのであって、ヒトラーの周囲で起こることに

ついては白い手のままでいなければならなかった。

「急がねばならんぞ」ロンメルはぽつりと言った。





 6月9日 午後10時 アロマンシュ村(イギリス第4戦車旅団司令部)



「それで君は、無傷の戦車を2台、ドイツ軍に射たれるままにしたと言うのだな」

 バイクス准将は、淡々とホーンブロワー大尉を接見している。正式な査問であろう

となかろうと、ホーンブロワーはこれ以上緊張する余地はなかった。

「君のような贅沢者は軍から放り出してやりたいのは山々だが、あいにくひどく人手

が足らん。レイトン中佐が戦死されたのは知っているな」「はい」イギリスの戦車部

隊は部隊の呼称が独特で、連隊は他の国の大隊に相当する。レイトン連隊長は、だか

ら中佐であり、ホーンブロワー直属の上司である。

 バイクスはじろりとホーンブロワーを見た。「君は先任の中隊長として、連隊長の

任務を代行する」「しかし、あの」ホーンブロワーは口ごもる。上陸作戦まで、ホー

ンブロワーは中隊長の中でいちばん若かったのだ。



 バイクスは、飲まなければならない苦い薬を飲むときの顔をした。「君が最先任に

なったのだ。マスキー大尉はレイトンと共に戦死した。レイノルズ少佐は負傷した」

「ひどいのですか」「火傷だ」バイクスは多くを語りたがらなかった。「バーンズ

大尉は・・・新しい任務につく。イングランドか、場合によってはスコットランドか

もしれん」するとバーンズ大尉は、とんでもない失態をしでかしたのだ。戦車を2台

放棄するより大きな失態を。

「間もなく君の連隊は再編に入る。ひどくやられているからな。そうしたらちゃんと

した連隊長がやってきて、わしはお前にふさわしいやくざ仕事を見つけてやれると言

うわけだ。わかったか」ホーンブロワーは懸命に自己を保った。軍法会議は免れたが、

左遷はされるらしい。暖かいところでありますように。「はい」



 バイクスはにやりと笑った。「お前は自分のしたことが、どんなことだかわかって

おるのか」「はい」「いや、わかっておらん」バイクスは初めて緊張の解けた表情を

見せた。「お前の中隊は、7両の犠牲で、マイヤー将軍の戦車部隊を食い止めた。ア

メリカ軍は奴らを食い止めるのに、1日に1個師団を差し出したのだ」

 きょとんとするホーンブロワーを、バイクスはもう引き留めなかった。「必要な書

類は、ヘイズ中佐にもらって行きたまえ。帰ってよろしい」バイクスは、ホーンブロ

ワーに答礼すると、つけ加えた。「明朝8時にブリーフィングを行うから出席するよ

うに、ホーンブロワー少佐」





 6月10日 午前10時 ラ・ケーヌ村(ドイツ西部戦車集団司令部)

 



「私は、どうしてここにいるのだろうな」シュベッペンブルクの放心したような呟き

を聞いて、参謀長・ダヴァンス少将は驚愕した。良かれ悪しかれ確信にあふれた、昨

日までの司令官はどこへ行ってしまったのか。

「尊敬すべき人たちが、私を勇気づけた。私の言うべきことを教えてくれた。私がや

らなければ、彼らは別の人物に、私と同じことをやらせたろう。そして今、私はひと

りだ」

 多くの高官、なかんずくOKWのヨードル作戦部長やヴァーリモント作戦次長は、

シュベッペンブルクの見解を支持し、必要な権限を与えた。それはシュベッペンブル

クの個人的見解ではない。ドイツ軍の公式見解であった。そして今、シュベッペンブ

ルクは失敗の責任をひとりで負わされる雲行きである。

「ロンメルなら、海岸にたどり着けたと思うか」ダヴァンスはかぶりを振った。「閣

下は最善を尽くされました。誰にもあれ以上のことはできません」



 シュベッペンブルクがまだ何か言いつのろうとしたとき、急に入り口が騒がしくなっ

た。「ロンメル元帥閣下です!」誰かが叫ぶ。とことん現場の好きなロンメルが、渋

面のシュパイデルを振り切って視察に出てきたのである。シュベッペンブルクの目に

矜持の灯が点るのを見てダヴァンスは安堵する。

「大変だったな」力強く両手を握って、ロンメルはシュベッペンブルクを慰める。

「誰にも、あれ以上のことはできるものではない」若い幕僚たちは、感激をあらわに

して見守っている。「戦車予備を放出してくれるよう、西方軍と協議してOKWに上

申しているところだ」たぶん。シュパイデルがうまくやってくれているはずだ。

「やはり正しかったのは元帥でした。空軍と艦砲射撃のもとでは移動は困難です」

「いや、艦砲射撃については私も判断を誤った。もし私が正しければ」ロンメルは

魅力的に笑った。「我々は今、海岸で会っているはずだ」すっかり打ち解けた様子の

ふたりに、司令部が明るさを取り戻す。



「では、これで失礼する。バイエルラインを見舞いにゆきたいのでな」

 例によって電撃的にロンメルが去った後、皆それぞれに会見の余韻を味わっている

ときであった。

「空襲!」

 叫び声と、航空機の爆音と、機銃掃射がほぼ同時であった。やや遅れて航空機用

ロケット弾が次々に浴びせられる。連合軍はエニグマ暗号解読によって、新司令部の

位置を報告する電文を入手して、天候回復を待って早速攻撃をかけてきたのである。

トレーラーの背中がざっくりと口を開けて炎を吹き出す。木箱が爆風にあおられ、

中の書類がひらひらと散らばる。



 嵐が去っても、動く者はいない。通信機材と移動手段はすっかり失われてしまった。

フランスの初夏の田園風景の中で、司令部は孤独である。

「不公平なものだ。爆撃を避ける運すら、ロンメルにはかなわないのか・・・ダヴァ

ンス、ダヴァンス」

 シュベッペンブルクは力なくうつぶせに横たわりながら参謀長を呼ぶ。もはや答え

ることのできなくなった参謀長を。







 第9章 マルクス





「ドイツ軍は、先生のお話だと、最初の3日ほどはそこにいるだけの戦力で戦ったん

ですよね」学生は復習する。「そのあとの計画はあったんですか」

「西方軍の反応は決して遅くなかったし、準備もしていたね。南フランスから部隊を

引き抜いて上陸地点に回すとか、強い部隊を上陸地点に動かした後に弱い部隊を穴埋

めに送るとか。だがね」教授は皮肉っぽく笑う。「連合軍が徹底的に鉄道輸送を妨害

したものだから、まあ計画の原型を実際の歴史から想像しようとしても、無理かも知

れないな」



「戦闘の計画はどうなんです」学生は質問を言い直す。「このラインで防ごうとか、

ここから反撃しようとか」「今まで話したことを総合してごらん」教授は直接には答

えなかった。「ロンメル元帥は、大西洋沿岸は全体として弱すぎると思っていた。す

べての防衛力を海岸へ張り付けた。上陸が始まれば部隊の移動は不自由になると思っ

ていた」「まったく、なかったんですか」「なかった」教授はきっぱりと言った。

「それは、上陸地点が分からなかったからですか」「分かっても戦力不足は解決しな

いからね」教授はため息をつく。「ロンメル元帥は、単純な方針を浸透させるのが好

みだった」精緻な計画は好きではなかった、と教授は言外に込めているようだった。





 ロンメル元帥を機略縦横の戦術家とすれば、第84軍団長・マルクス中将は正統的な

戦略家であった。そのマルクスがロンメルの指示に背いて、第91歩兵師団を半島の内

陸部に残しておいたことが、いま値千金の布石となっている。

 ユタ・ビーチに上陸したアメリカ軍の避けて通れない最初の課題は、コタンタン

半島を横断するように支配地域を広げて、半島先端のシェルブール港を孤立させるこ

とであった。そのためにアメリカ軍が使える道路は3本しかなく、そのうち中央の1本

の上に第91師団が腰を据えているのである。

 より先端に近い道路をたどるとヴァローニュ市に突き当たる。海岸から追い立てら

れた第709師団の生き残りと、精鋭第6空挺連隊の守るところである。この道路沿いに

進撃すると横断距離は短くてすむが、あとの展開を考えると確保地域が狭すぎ、イギ

リス軍上陸地点にも遠すぎる。半島の付け根、カランタン市からレッセー市に至る

ルートに控えるのは第12SS戦車師団。確保すべき地域が広いのに加えてドイツ軍は

増援の便があり、連合軍に取ってリスクが大きすぎる。

 第91師団は、いま攻防の焦点にいる。





 6月9日 午後1時 サント・メール・エグリーズ村



 村に入ったアメリカ第90歩兵師団の兵士たちは、言い合わせたように口を閉ざした。

アメリカ軍の艦砲射撃と榴弾砲、そして戦略爆撃機による絨毯爆撃は、村をほとんど

吹き飛ばしていたのである。地元の民間人がそこかしこに座り込んでいる。

 マイヤーたちから守備を引き継いでいた第91歩兵師団は西へ退却し、多くの捕虜が

生じた。アメリカ第90師団の若い兵士たちは、ドイツ第91師団の中年兵士たちにとま

どった。「将校ばかりの部隊じゃなかろうな」兵士たちが無遠慮にささやく。その姿

には悲哀があり、兵士たちは敵愾心を薄らがせて行く。

 徒歩で進軍する兵士のそばを、1台のジープが通り過ぎた。コリンズ中将が乗って

いるのに気づいた兵士は希であった。

「用のない兵士には、捕虜との接触は禁じたほうがいい」コリンズは指示した。経験

の浅いこの師団は、士気をぐらつかせる材料には特に配慮しなければならない。

 サント・メール・エグリーズを抜いたアメリカ軍は、歴戦の第4師団・第9師団が

戦線の両わきを固め、第79師団・第90師団の新米部隊が中央突破の先兵となる、とい

う危険な布陣であった。かといってもし逆であった場合、一気に海岸を席巻される恐

怖を、連合軍は捨てきれなかったのである。

 ともあれここまでは、順調であった。





 6月9日 午後1時 プッシー・パーク(SHAEF司令部)



 命数、という軍事用語を知らない者は、この連絡会議にはいなかった。しかし海軍

からその台詞を聞こうとは、という一驚が陸空軍幕僚の表情に現れていた。

「Dデイ以来、海軍部隊は戦艦から駆逐艦に至るまで、その砲撃力に応じて間断ない

沿岸支援を行ってきた」連合国遠征(欧州)海軍司令官・ラムゼイ海軍大将は、イギ

リス人らしい抑制で、陸軍への恨み言を表沙汰にはしなかった。「だがもう限界だ」



 大砲であれ機関銃であれ、砲身・銃身は発射のたびに高圧・高温にさらされるので、

ある発射数に達すると交換が必要になる。もしこれを怠ればまず照準が不正確になり、

ついには重大な事故につながる。大型艦の主砲を短期間に酷使したため、次々に命数

に近づく砲が生じたのである。



「このペースで行けば、D+7には最初の戦艦が主砲の交換に入らなければならなく

なる。現在我が司令部で交換のスケジュールを作成中である」D+7とは上陸後1週

間、すなわち6月13日である。

「砲撃力低下の影響は、7月下旬まで解消しないであろう」

 静かなラムゼイの予測に、陸軍の幕僚たちは震撼した。





 6月10日 シェ・デュ・ポン村



 サント・メール・エグリーズから南東へ4キロ。第90師団はメルデレ川をすぐそこ

に望んでいた。アメリカ空挺部隊の兵士を多く飲み込んだこの川の両側には、まだグ

ライダーの残骸がみられた。対岸にはちょっとした城館が見えている。先鋒部隊が橋

にさしかかったときであった。ごく少数の人間が閃光を、ほとんどの者が地面の揺れ

を、そしてすべての者が轟音を感じた。

 橋が、爆破されたのである。士官や下士官が、パニックを防いで走り回る。

 全師団が師団長の別命を待って停止する中、一団の軽車両群がかき分けるように師

団の先頭に進み出てくる。見慣れない部隊であった。隊長らしい人物が、周囲の士官

に呼びかける。

「独立工兵大隊のものだ。仮設橋を敷設する。師団長に許可を求めたい」

 コリンズは軍団直属の独立工兵大隊の中でも、特に戦歴の長い部隊を選んで、新米

師団のバックアップにつけていた。アメリカ軍はこういった用兵を好む。軍団レベル

に独立大隊をつけて、軍団の裁量で各師団にピザの”トッピング”のように配属する。

アメリカ軍には戦車師団は少ないが、こうした方法で戦車大隊を配属されて、多くの

歩兵師団は小振りの戦車師団の実力を備えていたのである。

 第90師団にもやはり戦車大隊が配属されて、じっと渡河の順番を待っている。こう

したお目付け役がいる限り、大崩れはしないですみそうであった。





 6月11日 午前10時 サン・ソーブール村(ドイツ第91歩兵師団司令部)



「アメリカ軍が止まっている、ということだな」督戦に訪れたマルクス中将は、師団

からの報告をこう要約した。第91歩兵師団をしつこく追っていたアメリカ第90歩兵

師団は、半島の中ほど、ポン=アベ村で前進を止めてしまっている。どうやら戦線が

広がりすぎて、戦線の穴が埋まらなくなったらしい。ほどなく大陸から増援が来るで

あろうが、当面はチャンスである。実はマイヤーがふたつの空挺師団を叩きのめした

ため、アメリカ軍の戦力が一時的に不足しているのだが、マルクスはそこまでは知ら

ない。

 アメリカ第90歩兵師団は、過去に華々しい戦果を上げた記録がない。新編成である

公算が強い。

「やってみるか」マルクスの呟くような示唆に、第91師団長・ファライ少将が渋面を

作る。「我が師団はもともと打撃力を欠いております。弱兵とはいえ1個師団に積極

的な攻勢をかけるとなりますと・・・」他の師団に比べればましだ、という台詞をマ

ルクスは飲み込んだ。

「私に考えがある」マルクスは珍しく微笑した。「私の担当区域で、ロンメル元帥は

ずいぶん楽しい思いをされたようだ。少し借りを返してもらうとしよう」





 6月11日 午後11時 ポン・アベ村



 久しぶりの休息をとっているアメリカ第90師団で、誰が最初に異常に気がついたか

は定かでない。高い生け垣に潜む狙撃兵、さりげない地雷、針金に連動したブービー

トラップ。戦争とはその程度のものだと、ここ数日で思いこまされていたのであった。

 村の南方の橋の警戒が薄かったのが致命的であった。突撃砲1個大隊を先頭に立てた、

戦闘団レベルの堂々たる反撃に対応するには、歩哨の数が少なすぎた。効果的な反撃

体制を組み立てる時間が稼げなかったのである。

 勝利の立て役者は、到着したばかりの第17SS機械化歩兵師団であった。機械化歩

兵師団は、戦車師団の半分しか戦車を持っていないが、対空、対戦車、偵察などいろ

いろな補助部隊で戦車師団に準じた戦闘車両を持っているので、戦車師団と同じか、

歩兵が多い分だけそれ以上の価値がある。編成定数だけの車両があれば、であるが。

「各車、榴弾5発、目標は任意」突撃砲をはじめ、大小の砲を備えた車両があらかじ

めかき集められていて、一種の砲撃部隊を作っている。それらの砲が、一斉に火蓋を

切った。



 対岸から見ていても、アメリカ軍の混乱ぶりはよくわかる。第17SS師団長・オル

デンドルフ少将は、傍らのマルクス中将にささやいた。「深入りはできませんぞ」

 マルクスは頷いた。ファライの師団が、符丁を合わせて攻撃をかけるはずだ。オル

デンドルフの貴重な突撃砲は橋の南側に止まったまま、村を欲しいままに射撃したあ

と、無傷のまま引き上げにかかった。

 ファライの攻撃により、ドイツ軍はポン・アベ村を一時的に奪回した。アメリカ第90

師団とその高級将校は大恥をかき、士気は地に落ち、大幅な人事異動の嵐が吹きすぎ

るまで、コタンタン半島横断作戦は頓挫することとなった。





 6月11日 午後12時 ディエップ市



 化学薬品の燃焼によって加速されたピストンが、最初の飛行爆弾を引っ張って発射台

から押し出した。ピストンを振り落とした飛行爆弾は、パルス=ジェットの推力で目

標へと突き進んで行く。

 いわゆるV1号の、これが最初の発射であった。機材と爆弾そのものの輸送に対す

る連合軍の航空妨害は、ノルマンディーの戦況悪化でややゆるみはしたが、初回に発

射できるV1号はわずか32発であった。

 目標は、ユタ・ビーチ。ロンドンを目標とするはずであり、発射基地はカレー地区

を中心に建設されていたが、ロンメルの懇請にヒトラーがまたしてもあっさりと折れ

たのである。つまり、最も西寄りの基地を使って、最初の発射を行うということであ

る。V1号の射程は200キロほどであった。



 32発のV1号のうち、10発は発射直後にあえなく爆発した。7発は、その行方をだ

れも知らない。残った15発のうち、4発は海岸の仮設飛行場に落ち、ワイヤーネット

をずたずたにした。2発は貨客の積み下ろし現場に落ち、直接のけが人はなかったも

のの、積み下ろしを2時間停止させた。3発はドイツ側地域、とくにカランタン市周辺

に落ちて、艦砲射撃で神経を参らせている兵士たちから翌朝厳重な抗議が来た。最後

の6発は、連合軍支配地域に落ちたものの、安眠を妨害する以上の実害はなかった。



 ヒトラーは報告を聞いて、目標をロンドンに再変更させた。目標を20キロ以上はず

れることもあると分かった以上、ロンドンのような巨大な目標がよりふさわしいと判

断したからである。ロンメルは肩をすくめて、反対しなかった。





 6月11日 午後8時 ポーツマス市(SHAEF前進司令部)



「手詰まりだな」アイゼンハワーは言った。侵攻計画は遅れに遅れている。

「ドイツ軍の消耗も相当なものになっているはずです」スミス参謀長が慰めるが、

アイゼンハワーはかぶりを振った。華々しい戦果がないことが、各国・各部の不協和

音を耐え難いまでにしている。

「ゴールド・ビーチから上陸したアメリカ軍は、順調に進撃しています。一両日中に

は、人工港の設営にかかれるはずです」スミスはアイゼンハワーのために、明るい材

料を探す。オマハ・ビーチに設置するはずだった人工港は、浮き桟橋の土台に使うコ

ンクリート・ケーソンがオマハ・ビーチの比較的深い水深に合わせてあるため、他の

海岸へ転用することが出来ずにいるのである。

 アイゼンハワーは、押し黙ったまま宙を見ていたが、やがてつぶやいた。

「バットンは、どうしている」

 彼が必要なときが、来たようであった。





 6月11日 午後11時 バイユー市



 連合軍の空襲を避けて、特に夜中に到着した列車は、重々しく郊外に停車した。

防空カバーが手早くはぎ取られ、仮設された乗降台がその強度を試される。

 タイガー戦車は連合軍兵士に取ってドイツ戦車の代名詞であったが、じつは今日到

着したのがノルマンディー最初のタイガー部隊である。連合軍将兵は、ドイツ戦車を

よく間違えてタイガーと呼ぶことがあった。

「待ちかねたぞ」ようやく起きあがれるようになったバイエルラインが、たのもしい

新戦力を出迎える。この独立重戦車大隊は、戦車教導師団とともに戦うことになって

いた。

「空襲がひどいようですね」「東部戦線とは違うよ」「肝に命じます」ヴェステルン

ハーゲン中佐は、さすがに跳ね上がったところがない。バイエルラインの視線は、す

でにその背後に並ぶ士官たちに向いている。ヴェステルンハーゲン大隊長は慣れっこ

になった様子で、それでもくすくす笑いをしながら、ある若い士官を指した。

「彼です」

「君か」「はい」恐ろしく不得要領の会話であるが、これでわかってしまうのである。

バルカン半島と東部戦線を往来し、戦車及び突撃砲を撃破すること117両。更新され

つつある世界記録の保持者である。

「ビットマン大尉です」士官は敬礼した。







 もはや連合軍の追い落としは不可能となった。ドイツの戦力はその限界に達しよう

としている。連合軍は停滞の中で、その結束を試されようとしている。

 双方の背後で、それぞれに動く者があった。次の激動をもたらすために。





 ヴィットとマイヤーの人物描写については、ストーリーの都合を優先させて、や

や実物とは違っていることを自覚しながら執筆しました。



 ロンメル将軍は連合軍の上陸地点がどこになると思っていたのでしょうか。リデ

ル・ハート編"Rommel Papers"などの記述に従うならば、最大の問題は最初の上陸地

点ではなく、その後の予想にありました。OKWは連合軍の投入可能な戦力を実際より

大きく見ていて、ロンメルもこの見方を取っていました。ですからOKWとロンメルは

等しく、第2次上陸に備えて、他の海岸(特に第15軍管区)からの兵力引き抜きには

慎重であったのです。

 実際には、フランス地中海岸のG軍集団戦域から多くの歩兵師団がノルマンディー

に投入され、8月にこの地域に実際に第2次上陸があったとき、なすすべもなく壊走

することになりました。



 ミッチャー大尉は架空の人物であり、その出撃ももちろん架空の事件です。この

事件は全体として、連合軍がまだ投入できる資源(例えば沿岸航空軍団)を持って

いたことを強調するために筆者が用意したものです。ドイツ軍が上陸作戦全体を失

敗させることは、彼我の持っている資源のバランスから言って、ほぼ不可能であっ

たと筆者は考えています。



 セオドア・ルーズベルト准将は、上陸戦闘で失態の多かった第90歩兵師団長に任

じられ、その直後に心臓発作を起こして死亡しています。



 シュベッペンブルクの司令部が爆撃された事件は、航空偵察によるものとされて

いましたが、どうもエニグマ暗号解読で位置を知られたためではないかと思われま

す。




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