「真紅のあいつ」
マイソフ
北海道の道路はむやみに広い。冬になって除雪が必要になったとき、雪をかき貯め
る余裕が必要だからである。その道路を、サイドカーが乾いた音を立てて疾駆する。
ヘルメットの男は簡単な荷物をサイドシートに載せて、背中にも丸いバッグを背負っ
ている。
夕陽が地平線の遥か彼方に沈もうとしている。男は、行く手にちんまりと集まった
建物に近づいていく。そのうちの1軒には、安っぽいネオンサインで「スーハー」と
表示がある。゜の部分は電球が切れているのであった。
ぎいいいい、と音を立ててスーハーの扉が開く。陰気だ。棚は1段、床から30セン
チばかり高い台に申し訳なさそうに缶詰や瓶詰めが並んでいる。
サイドカーの男は、いつの間にかヘルメットを脱いでテンガロンハットをかぶって
いる。かちゃり、かちゃり。踵につけた拍車が音を立てる。買い物かごを下げた痩せ
た老婆と、若い娘とも若奥さんともつかないパンタロン姿の女性がひとり。買い物客
はそれだけである。
「野菜はないのか」
「腐るから置かねえ」
レジにいる髭男が、投げやりに返答すると、煙草の煙を天井めがけて吹き上げた。
オートバイの男が毒々しく赤いチェリーの缶詰を手に取ったとき、老婆がレジに進ん
だ。
「このチェリーは10年前の奴だな。チクロが入ってるんじゃないのか」
チクロは1970年代初頭に販売を禁止された人工甘味料である。レジの男は、けっ、
という顔で答えず、老婆の買い物をレジに打ち込んだ。「852円払いな」
「516円だろ!」老婆の声は驚くほど大きい。
「レジが壊れてんだよ。払いなったら払いな」
「ごまかそうったって、そうは行かないんだからね」老婆もまた強情である。
「なんだとお、このババア、客の分際で主人に盾つく気か」髭男は目をむいてすごん
だ。カウンター越しに拳を振り上げる髭男。ちぢみあがる老婆。その髭男の腕を、止
める者がある。
「止しな」
サイドカーの男が、淡々と命じる。
「野郎、すっこんでな」振りほどこうとする腕が、ほどけない。髭男は逆上した。
もう一方の腕を振りかぶる。その顔面を、逆に拳骨が見舞った。カウンターにしたた
か背中を打ちつける髭男。
「やっちまえい、やっちまえい」はしゃぐ老婆。
「いくらだ」サイドカーの男は、髭男に覆いかぶさる。
「な、なにがだ」「この缶詰はいくらだ」「きゅ、98円だ」
サイドカーの男は、黒い革手袋の右手をちょっと丸めると、人差し指と中指の間か
ら100円玉を取り出した。一瞬にやりと笑ってそれをぱちりとカウンターに置く。代
わりにチェリーの缶詰を取り上げた。
めりめりっ。
片手で缶詰が握りつぶされ、赤いチェリーがぼとぼととスーハーの床に落ちる。髭
男の表情が凍り付く。
「さあ、お婆さんの勘定は、いくらだ」
「い、いらねえ。いらねえよ」
「お客様には、奉仕の心で接することだ。いいな」
「わ、わかった。わかった」髭男の声が震えている。買い物かごを抱えて、一目散に
駆け去る老婆。
かちゃり。かちゃり。拍車を響かせて、サイドカーの男も店を出た。
「あんた、強いんだねえ」
さっきの店にいた娘が寄ってくる。
「あんたの買い物はどうした」にべもなく尋ねるサイドカーの男。
「ううん、もういいんだ」娘は屈託なく笑う。「あたし、小春。あんたは」
「富士桜浩一」男は人差し指でテンガロンハットの縁を持ち上げる。
「さっきあんたがやっつけたのは、鬼鮫甚九郎の手下。あの店も甚九郎のものなの」
小春は両手を体の前で交差させていたずらっぽく笑う。
「あんた、これからどうするの」
「あてなどない」
「甚九郎は執念深いわ。ねえ。あたしがいい店知ってるの。そこにかくまってもらっ
たら」
「どこだ」
「ここよ」
この村は非常に小さいので、道路に沿って建物が両側に4つずつしかない。小春の
示した店は、スーハーの隣の隣であった。
「ほう、お米ばあさんをなあ」駄菓子屋の主、五平は、小春の紹介に笑顔を見せた。
「それは今どき、心がけの嬉しい若者じゃないか」浩一は室内でもテンガロンハット
をかぶっている。
娘が不揃いな湯呑みの載った盆を抱えてやってきた。「末の娘のおさよです」五平
の紹介に、おさよはおずおずとおじぎしながら曖昧に微笑む。
この村は、もともとバス停の周りに出来た小さな商店街であった。昭和30年代には
それなりに賑わっていたのだが、自家用車の普及でめっきり寂れたのである。
話が弾むまま、事の成りゆきで、浩一はしばらく住み込みで働くことになってしまっ
た。
「馬鹿野郎!」
鬼鮫甚九郎は、がっしりと横幅のある中年男である。怒られた髭男は小さくなって
いる。「めっぽう強い奴なんで」
「五平の駄菓子屋にしけこんだんだな」「へい」「どうだね、先生」
先生、と呼ばれた男が答える。「邪魔者には消えてもらう。それでよいのだろう」
「これで五平の駄菓子屋もおしまいでさあ」お調子者の部下がおだてる。
「うん?」「どうしやした」甚九郎は首を振った。「なんでもねえ。気のせいだろう」
小さな白い影が、ソファの影に隠れたような気がしたのだが。
北海道の朝を乾いたさわやかな風が洗っている。浩一はテンガロンハットをかぶっ
たまま、駄菓子の入った味付海苔の空き瓶の埃を払っていた。キャプテンスカーレッ
ト・フーセンガムの黄色くなった紙ケースの背後には段ボール紙が貼ってあって、ど
こかの雑誌から切り抜いたのか、スペクトラムの制服を着たペギー葉山がにっこり笑っ
ている。ここ10年ほどは売れ残っているに違いなかった。
「浩一さん、浩一さん」
「なあに、いまの声。まさかお客さん?」おさよが反応した。
「浩一さん」「なにかわかったのか」声のする方を見たおさよが、目をまん丸くした。
20センチばかりの女性が3人、3つ子のように並んでいる。彼女たちは一斉におさよ
の方を向くと、にっこりと会釈した。
「私たちは、陽気な小美人です」高くか細い声が揃っている。「俺の仲間だ」浩一が
簡単に言い添える。「そう。よろしくね」おさよが明るく微笑む。
「もうすぐこの店は襲われます」「いま甚九郎さんのアジトで聞いてきたんです」
「さんはつけなくていいの」「あらあ、親しき中にも礼儀ありっていうじゃない」
「誰が親しいのっ」「ところでねぇ、ナギサねえさんったら、見つかりかけたのよ」
「あんたがさっさと隠れないから押されたのよっ」「あによう、人のせいにするわけ」
「やめなさい、あんたたち」「何よ、自分がちょっと宍戸錠に似てると思って。
どうせあたしは林寛子よ」「やってられないわっ」
3人は一斉に頭を下げた。「失礼しましたあ」
「よく知らせてくれた」浩一はあくまで冷静である。「どんなやつだ」
「あんなやつ」小美人たちは店先を指さした。カエルのような顔をした男がむっつり
と店内を眺め渡している。
「じゃまするぜ、ゲフゲフゲフゲフ」
「どこか他のシリーズで見たような奴だな」
「他人のそら似だ、ゲフゲフゲフゲフ」カエル男はにやにやと笑う。背後には3人ば
かりの手下がついてきている。
「ペッロペッロキャンデー、ひとつ、もらうぜえ」駄菓子屋の店先ですごんでも限界
があるが、手下が精いっぱいの脅しを見せると、売り物のキャンデー瓶に無造作に手
を突っ込んだ。「おおっ、抜けねえ」手下があわてる。「ごめんなさい」おさよが生
真面目に謝る。「キャンデーがすっかり融けちゃって」売れ残りのキャンデーの砂糖
がどろどろになって瓶の底に固まっていて、針山のようにペロペロキャンデーの柄だ
けがそこからつき出している。
「とっ、取れねえ。兄貴ぃ」手下が泣き顔で助けを求める。瓶に突っ込んだ手が抜け
ないのだ。「ゲフゲフゲフゲフ。貴様たち、瓶に何か仕掛けたな」カエル男が迫る。
「瓶の中の手を、離して見ろ」「あっ、取れた」瓶の中のキャンデーの柄をつかんで
いたので、手から瓶が取れなかったのである。
「ゲフゲフゲフゲフ、俺たちに恥をかかせたな」「悪は自らを滅ぼすんだ」「勝負だ、
表に出ろ」
浩一は誘われるままに道路に出る。手下が浩一を囲む。浩一が初めてテンガロン
ハットを脱いで、カエル男たちをにらみつける。
「そんなに嵐を呼びたいか!」
浩一は手首をしならせて、テンガロンハットを投げた。テンガロンハットは次々に
手下に命中すると、まるで電撃を与えたかのように手下を倒してしまう。
「あれは何なの」物陰からはらはらと見守るおさよが陽気な小美人たちに尋ねる。
「ビクトリーテンガロンです」声を揃える陽気な小美人。「あれは電気なの、それと
も毒かなにか」「昔からそうなんです」にこにこと答える陽気な小美人たちを見て、
おさよはそれ以上尋ねるのをやめた。
テンガロンハットはすべての部下を倒して浩一の手元に戻ってくる。「こしゃくな
奴め」カエル男はふところから毒矢をひとつかみ取り出す。
「飛び道具か。ならばこちらも」浩一は店先にあったペンシルチョコをつかみ取る。
なぜか通る車もない広い国道でにらみ合うふたり。秋風が遠慮がちな音を立てて埃を
巻き上げる。
「ペンシルチョコで、このおれの毒矢に勝てると言うのか」
ニヒルに笑うカエル男。
「お前の毒矢など、ペンシルチョコで十分だ」
クールに言い返す浩一。
「いいだろう。貴様の死ぬ方法は、貴様が選べ」
カエル男は不器用に振りかぶった手から次々に毒矢を繰り出す。応じて放たれるペ
ンシルチョコは毒矢を1本も過たずはじき飛ばす。じりじりとカエル男に迫る浩一。
その足が、止まった。
「よくここまでがんばった。だが毒矢の残りはあと2本。おまえのペンシルチョコは
あと1本」カエル男はあざけり笑いを浮かべる。
「勝負は最後まで分からない」浩一はペンシルチョコ最後の1本を口にくわえる。
「くらえい」2本の毒矢が空を切る。浩一はくわえていたペンシルチョコを半分に折
ると、両手で放つ。毒矢をはね飛ばした浩一はカエル男に向かって走る。
「とう」浩一は飛び上がりざま、足を引っかけるようにカエル男の頭を蹴る。
「げふぅっ」よろめくカエル男の背中にまっ逆さまに取り付いた浩一は、カエル男の
足首をつかんで、自分の足で絞めたカエル男の首を強く引く。「げっ、げえっ」
カエル男がたっぷり苦しんだ頃を見計らって、浩一は声をかける。「降参か」「こ、
降参する」浩一はひらりと道路に降り立ち、カエル男はだらしなくくずおれる。
「二度と顔を見せるんじゃないぞ」浩一は揚々と店に引き揚げる。「浩一さん・・」
おさよが感動して迎える。
「おさよさん、すまない」浩一がおさよをじっと見つめる。
「売り物のペンシルチョコをずいぶん無駄にしてしまった」「いいのよ」おさよが優
しく笑う。「どうせ売れないんだから」
「入んなさい」店の奥にいた五平がやさしく声をかける。
「あんた、いったい何者だね」五平が明日の天気予報を聞くような調子で、浩一の素
性を尋ねた。「しがない流れ者です」浩一が答える。陽気な小美人たちは3人並んで、
おちょこに入れてもらったお茶をすすっている。「おじいさん、SEADOの方ですね」
浩一の何気ない一言で、五平の目がさっと険しくなった。
「どうしてそれを」「あれです」浩一はタンスの上の白黒写真を指さした。タイツを
はいてスクーターにまたがった頭巾の人物が写っている。
「見破られちゃあしかたがないな・・」「あら、おじいちゃんまた昔の話してるの?
すいません付き合わせちゃって」おさよの口ぶりでは、このへんではみんな知ってい
るらしい。
「いかにも、わしは若い頃、子供王子と名乗っておった。まあ平和を守っておったの
がこのへんじゃから、有名ではないがな。最終話で正体がばれて、死んだかみさんと
一緒になったんじゃよ。ところで」五平が茶飲み話に戻りかけた口調を改める。「なぜ
SEADOのことを知っている」
「旅をしていると、色々な人に出会います」「じゃろうな。ああ正義感が強くてはな」
五平は深く追求しない。「あれだけの力、SEADOに貸してはくれんのか」
「おれは風来坊なんです」浩一は斜め上を向く。テンガロンハットはかぶったままで
ある。「風の向くまま、気の向くまま」
「くっくっくっ、まあそれも良かろう。今日は久しぶりに目の保養をさせてもらった」
五平はよろりと立ち上がった。「酒は、飲むかい」
なごやかな雰囲気を、一本の矢が破った。五平が湯呑みを天井に投げる。「あち、
あち、あち」茶を浴びた陽気な小美人が逃げまどう。五平が舌打ちして浩一を見ると、
もう浩一は矢文を手に取っていた。「すまん・・老眼なものでな。読んでくれるか」
浩一は求めに応じて読み上げる。
「小春は預かった。助けたければ、スナック鬼鮫まで来い」
おさよが持ってきた自分の湯呑みを落とした。「あち、あち、あち」陽気な小美人
が声を揃えて逃げまどう。
「ぬかった! 小春さんを狙ってきたか」五平が顔をしかめる。
この村には建物が8軒しかない。鬼鮫一派のアジトであるスナック鬼鮫は五平の店
の3軒隣、小春はスナック鬼鮫の向かいに住んでいる。
「あたしたち、先に言って、様子を見てきます」小美人たちがかさこそと物陰に姿を
消す。おさよが声をかける。「気をつけてね」「大丈夫です。危険には慣れています
から」「そこのタンスの裏ねえ、ゴキブリ取りがあるの」このころ、粘着式の使い捨
てゴキブリ取りは急速に普及しつつある。
タンスの裏から短い悲鳴が聞こえた。
「やはり、私が行くしかないでしょう」浩一がむっくりと立ち上がった。
浩一は軒下の洗濯ばさみから革手袋をはずして身につける。チェリーシロップまみ
れになった手袋は、昨日洗ったのでもうすっかり乾いている。
サイドカーのエンジンをかけようとする浩一に、店から小走りに出てきたおさよが
声をかける。「浩一さん、待って」
豪快なエンジン音がそれに答える。「男を試されてるんだ。行かなきゃならない」
「浩一さん」エンジン音がさらに大きくなる。
タイヤが回り始めるのと、おさよが叫ぶのとが、同時であった。「スナックは3軒
向こうよ。歩いて行けるわ」
エンジン音が、ばたりと止まった。
着いたのである。
「へっへっへっへっ、かしら、とうとう、お、女の人を、さらっちまいましたねっ」
なにしろ人口28人の小さな集落である。鬼鮫一味が悪いことをすると言っても限りが
あって、ゆきがかりで人をさらってしまったのは空前の大犯罪なのである。「悪党に
なったなあ・・かあちゃんに手紙を書こう」「馬鹿野郎」目をうるうるさせる手下を
鬼鮫が怒鳴りつける。
ばたん。扉が蹴破られる。テンガロンハットの男はしばらく入ってこないで、オカ
リナを吹き鳴らしている。
曲目は、「コンドルは飛んで行く」。
鬼鮫が躍起になって手下を励ます。「こらっ、おまえたちっ、遠い目をするんじゃ
ないっ。先生、先生っ」「ゲフ〜〜〜」「先生までなんだっ。もう用心棒じゃねえ。
男じゃねえ。カエル娘だカエル娘」ひとりわめき散らす鬼鮫。
「鬼鮫甚九郎!」浩一の叫びと共に、みなは余韻から醒めた。かちゃり、かちゃり。
拍車の音が3度響いて、止まる。「長年に亘りスーハーの勘定をたばかり、人々を苦
しめ、あまつさえ小春さんをかどわかしたその悪行、断じて許し難い」
「助けてえ」小春がタイミングよく叫ぶ。「見るがいい。燃える男のファイヤーチャー
ジ」浩一が室内に進むと同時に、両腕を交差させる。一瞬赤い光に包まれた浩一は、
赤いジージャン、赤いジーンズ、レモンイエローのベストに赤い仮面の凛々しい姿に
その身を変じた。
「我が名は、失われし者、ロストマン!」
「ゲフ〜〜」「ヨー!」妙なかけ声と共に、ロストマンは袖の内側から小さなヨーヨー
を繰り出す。「いてえっ。いてえっ」驚くべき早業で交互にヨーヨーを当てられて、
カエル男はうずくまってしまう。「ソリューション!」ロストマンの両掌から出る暖
かい光がカエル男を包む。「うああああぁぁっ」悲鳴と共に、カエル男の姿は消え、
あとにはカエルが1匹きょとんと座っているだけとなった。
手下たちはすっかり凍り付いてしまっている。ロストマンの視界に、逃げようとす
る鬼鮫の姿が映った。
「スロー!」ロストマンはサイドスローで鮮やかに店の灰皿を投げる。鈍い音がして、
鬼鮫が倒れる。「ソリューション!」再び、暖かい光があたりを満たした。
「色々ありがとうございました」鬼鮫は集落の人々とにこやかに握手を交わし、1時間
に1本のバスで新しい人生を捜しに出かけて行こうとしている。きょとんとするおさ
よに、浩一が説明した。
「彼には、偽の記憶を与えた。村人と互いに愛情を注ぎ合った記憶だ。しかしよんど
ころない事情があって、彼は出て行かなければならない」「それって、鬼鮫が鬼鮫で
なくなること?」
浩一は笑った。「おさよさんは、人生をやり直したいと思ったことはないかな」
おさよはしばらく無言でいたが、話題を変えた。「カエル男は?」「人間がカエルよ
り幸せだと思うかい」
再び無言になるおさよ。「複雑な問題に単純な解答を与えるコツはね」浩一は言っ
た。「問題を単純なものにすり替えることさ」
「行っちまうのか」五平は寂しそうである。「お世話になりました」頭を下げる浩一。
「これ、持ってってちょうだい」おさよは、ボンタンアメの業務用ケースを差し出し
た。「こんなことしてもらっちゃ」「いいの。どうせ売れないんだから」
「じゃ」一瞬おさよと視線を交差させ合った浩一は、表のサイドカーへと歩いて行っ
た。無言で見送るおさよ。それを見て微笑みうつむく五平。
「私たちも、行かなければなりません」陽気な小美人が口々に言い出す。
「またの会う日を、楽しみにしています」
「それではみなさん、さようなら」
「あっ、待って」おさよが呼び止めるより早く、小美人はかさかさと姿を消す。
「さっきゴキブリ取りを動かしたんだけど・・」
冷蔵庫の後ろで、短い悲鳴が上がった。
完
「闇の守り」
マイソフ
K市は、冬の底冷えではちょっとした評判を取っている。
「ごめんよう」冬の焼き鳥屋は、夏ほどの人いきれがない。たまたまカウンターに
席を占めれば、端まで見通すことができた。
「コウちゃんじゃねえか」いましがた入ってきた客に声をかけられて、幸田杜夫−
現在の名乗りに従って、しばらく彼をそう呼ぶことにしよう−はぎくりとした。
「俺だよ。モモさんだよ」モモさんと名乗る男はどう見ても40才を過ぎたと思われ
る髭面のおっさんである。一瞬、ニューハーフと人違いされたかと思った幸田だっ
たが、その髭面を見るうち、遠い記憶が蘇ってきた。
「モモさん、ドク、えー、ドクター技研の」幸田は危うく、カウンターの向こう
で店員が焼き鳥を焼いていることに気がついた。「モモさんかあ。生きてたのか」
「お前こそ、もう会えねえかと思ったぜ」笑顔で背中をばんばんと叩くモモさん。
訳も分からぬまま、店員はカウンター越しに、はしゃぐふたりに微笑を送る。
SEADOとの死闘の末、悪の組織ドクロマンサーが崩壊して2年。組織を抜け、ひっ
そりと生き抜いてきたコウモリマンサーとモモンガマンサーは、こうして幸運な再
会を果たした。
「原酒、おかわり」コウモリマンサー・幸田杜夫、通称コウちゃんは空になったグラ
スをカウンターの上段に置く。お互い、2年の暮らしで、話すことがたくさんあった。
モモンガマンサー・百瀬龍彦、通称モモさんは、ふと真顔になって、呟く。「余計
なことを聞くようだが、懐のほうは、どうだい」
「鉄板のレースでもあるんだったら教えてくれよ」鉄板とは、ギャンブル用語で予想
が確実であることを指す。コウモリマンサーは冗談のつもりだったが、モモンガマ
ンサーはうつむいたまま、決心するようにコップ酒をあおる。「河岸、変えねえか」
ガラス戸を開けて寒空に出たとたん、口を開いたのは、コウモリマンサーのほうで
あった。「モモさん、あんた・・・力を使ってるね」
モモンガマンサーは、コートの衿を立てて、丸めた背中をコウモリマンサーに向
ける。「それ以外に、俺たちの生きるすべがあるっていうのかい」
「それはいけねえよ、モモさん」すがるように肩にかけたコウモリマンサーの手
を、モモンガマンサーは振りほどく。「せっかく堅気になったんじゃねえか」言い
つのるコウモリマンサー。ゆっくりと歩き出すモモンガマンサーの吐く息が白い。
「今度のお頭はな、信用の置けるお人だ。おめえのことも、悪いようにはなさらね
え」激しく首を振るコウモリマンサー。「それはいけねえ。俺たちは人なんだぜ。
人として生きようじゃねえか」
「生言うんじゃねえ」モモンガマンサーが初めて振り返る。その唇が震えているの
は、寒さのせいばかりではあるまい。「俺たちは人扱いされてねえじゃねえか」若
いカップルが、道の反対側を足早に追い越して行く。それを気にする余裕は、もう
コウモリマンサーにもなかった。「短気を起こしちゃいけねえ。俺たちが人でねえ
んなら、もう一度人になればいいじゃねえか」モモンガマンサーの両腕を取って激
しく揺さぶるコウモリマンサー。「やかましいやい」モモンガマンサーの顔がくしゃ
くしゃになる。「娘がよう・・・病気なんだよ。金がいるんだよう」
絶句するコウモリマンサー。改造人間が正体を隠して生きて行くことはそれほど
難しくないが、身元保証無しでつける職はなんと言っても限られているから、まと
まった現金を手に入れることは非常に困難であった。
コウモリマンサーは、黙ってモモンガマンサーを見送るしかなかった。
帝国毎度銀行岡崎支店の2階に、深夜になっても明かりがついていることに、近
所の者はもう慣れっこになっていた。もちろん歩道から銀行の2階をのぞき込むこ
とはできないから、残業していた行員たちが気絶させられて床のあちこちに倒れてい
たとしても、しばらくは誰にも気づかれないのであった。
メモを片手に、オンライン端末をせわしなく操作しているのはモモンガマンサー
である。1000万、2000万・・・次々に偽の入金操作が進んで行く。最後に・・・モ
モンガマンサーは震える手で、200万円の振込を指示した。妻の口座に振り込まれた
200万円は、娘が心臓手術のためにアメリカに渡るのに役に立ってくれるはずだった。
すべてを終えて、銀行の屋上から逃げだそうとしたモモンガマンサーに、背後か
ら声が掛かる。「とうとうやっちまったな、モモさん」コウモリマンサーである。
「コウちゃん、見逃してくれ、頼む」顔を歪めるモモンガマンサー。「真人間になっ
てくれ、モモさん」「改造人間は、真人間になんかなれねえんだよう」地を蹴るモ
モンガマンサー。滑空して通りを一気に横切ろうとするモモンガマンサーに、コウ
モリマンサーが口を開けて超音波を浴びせる。
「うおおおおっ」姿勢を崩し、それでも歩道に転がり込むモモンガマンサー。「目
を覚ませ、モモさん」コウモリマンサーが羽ばたきながら追ってくる。はいずり逃げ
るモモンガマンサーの手が、黒いブーツに触れた。
「ガラガラガラガラ。失敗したなモモンガマンサー」
「たっ、助けてくれ」すがるモモンガマンサーを抱き起こした黒いブーツの影は、そ
のままモモンガマンサーの首筋にかみついた。「ぎゃあああっ」その光景は、追いつ
いたコウモリマンサーをさえ絶句させた。「モモさん!」もがくモモンガマンサー
の姿は、間もなく人間のそれに変わった。ブーツの男の影も、崩れるようにビルの谷
間に溶け去って行く。それを追おうとしたコウモリマンサーであったが、やはり足元
のモモンガマンサーを残して行くには忍びなかった。
「モモさん、しっかりしろ、モモさん」モモンガマンサーは何か言おうとするがもう
声にならない。やがて懐を探ると、一通の封筒を取り出した。震える手でそれをコウ
モリマンサーに握らせると、行け、と顎をしゃくる。
人の姿に戻り、駆け出して建物の影に隠れたコウモリマンサーは、程なく閃光と轟
音を感じた。コウモリマンサーは、空を見上げて泣いた。ただ泣いた。眼を開けて泣
き、眼を閉じて泣いた。
今の爆発で、人が集まってきたようだ。コウモリマンサーはさっきの封筒に眼をや
る。宛先は百瀬龍彦様、差出人は百瀬かよ子となっていた。封筒をしまうと、コウモ
リマンサーは足早に立ち去って行った。その後をつける者がいたことに、コウモリマ
ンサーは気づいていない。
かなり田舎の住所であった。田畑の中にぽつりぽつりと家が立っている。柿の木の
枝振りが屋根を覆わんばかりにしている旧家もあれば、真新しい近代建築もある。目
指す家はそう古い印象は与えなかったが、ひどく傷んでいた。
「ごめんください」何度呼んでも返事がない。玄関のカギが開いているのに気づいた
コウモリマンサーは、思い切って中に入ってみることにした。
やはり、人の住んでいる様子がない。急いで粗雑に引き払われたような印象を受け
る。いくつかの家具は明らかに持ち去られていて、大型の家具は元の位置から動かさ
れたまま放置されている。
奥で、しゃかしゃかと音がする。
コウモリマンサーが油断なく奥をうかがうと、和服姿の初老の女性がお茶を立てて
いるのであった。埃だらけの和室にござを敷き、床の間には一輪挿しをしつらえてい
る。たったそれだけだが、えも言われぬ気品ある空間が生まれていた。
和服の女性に見つめられて、コウモリマンサーは当惑したが、どうしたものか緊張
感が薄れて行く。「おいでやす」女性は微笑んだ。
「あの、百瀬かよ子さんですか」女性は無言で、抹茶を勧めた。雰囲気に気押されて、
コウモリマンサーは警戒もせずにそれを飲む。ただの抹茶であった。
「かよ子さんと娘さんは、4年前の事故で、亡くなってはるのどす」その口調があま
りに静かだったので、かえってコウモリマンサーは不意をつかれてしまった。
「龍彦さんだけが助かって、ドクロマンサーに手術されはったのどす。まあドクロマ
ンサーはんのことやから、本人さんにそんなこと言わしまへんわな」コウモリマン
サーの頭に、その意味が沁み通るまでに、しばらくかかった。コウモリマンサーは
ポケットから例の封筒を取り出す。質問をする前に、答えが返ってきた。
「もちろん、偽物どす」
コウモリマンサーの喉から、人のものとは思えない声が絞り出された。立ち上がっ
て戸口を目指すコウモリマンサーの足を、凛然とした声が止めた。「待ちなはれ」
女性の瞳が凍てついた光を放つ。「折角真人間になりかけた、あんさんの手を汚した
ら、あきまへん」女性は一歩も動いていないのに、コウモリマンサーはあらがいよう
もなく立ち尽くしていた。
「この一件、評定しまひょ」誰にともなく女性がそう言うと、天井裏から若い女の声
が応じた。「手口は粗いのに、ずいぶん内部の事情に詳しいやん。手引きした人がい
るんとちゃう」縁の下から、今度は若い男の声がする。「ドクロマンサーは壊滅した
はずや。その改造人間のデータを持ち出した奴がいてる」襖の向こうから、しわがれ
た男の声が引き取る。「あとは、怪しい蛇男やな」
ほんのしばしの沈黙を破って、初老の女性は呼びかけた。「思いの他、根が深うお
す。して心証は」天井板をはずし、床板をくぐり、襖を開けて、声の主達が顔を出す。
みな一様にきらきらと厳しい眼をしている。「討つべし」「討つべし」「討つべし」
「聞いての通りどす」女性はコウモリマンサーに告げた。「後のことは、うちらに預
けなはれ」「あ、あんたがたは、いったい・・・」
「鬼を拒まず夜叉をも逐わず、闇の守りの裏SEADO」女性はにっこりと微笑んだ。
「一件落着まで、眠ってもらいますえ」コウモリマンサーは急に体がぐらりと揺れる
のを感じた。やはりさっきの抹茶には、なにか入っていたのだ。
帝国毎度銀行人事部長、鈴木一郎は、将来有名人と同姓同名になるとは思いもよ
らず、いつもの定食屋を指して歩いていた。部長昇進のとたんに第2次石油ショッ
クに襲われ、思ったほど上がらなかった給料をやたらに増えた部下の慶弔費に食わ
れ、妻には不満顔をされている。
ただひとつの、少なからぬ出世の喜びは、好きなときに昼食にできることであっ
た。もう定食屋の前で30分並んで6分で食って8分で走って戻る生活とはおさらばで
ある。午後1時とあって、育ち盛りを30年前に卒業した鈴木も、腹ぺこであった。
「ごめんなさい」目のぱっちりした、活発そうな若い女性が、ハイヒールの踵を踏
み違えて鈴木によりかかってきた。腕にちくりと傷みが走る。「あの、よろしけれ
ば、昼食ご一緒しませんか」女性は微笑んだ。
どういうわけか、鈴木は断ることができなかった。
「今度の岡崎支店の事件、支店長さんどうなるんですか」女性が柔らかく質問する。
口調は標準語だがイントネーションは関西のものである。ぱき、と鈴木が箸を割る
音は、どこか弱々しい。「どうもしないよ。外部の犯行だから」「誰も困らないん
ですか」「もちろんあの支店は当分忙しくなる。警察の捜査には協力しなければい
けないし、ああそうだ。支店長の山本君は、ニューヨーク支店に移る話が、たぶん
つぶれるだろうなあ」「へえ。出世しはるんですか」関西人の付け焼き刃の標準語
では、よく敬語だけが関西弁になる。
「支店長から支店長だから出世になるのかなあ。まあ花形部署だから出世コースで
はあるね」鈴木の口調は流暢だが抑揚がない。「誰が代わりに行かはるんですか」
「東岡崎支店の山田支店長が、ニューヨークに行きたがって専務に直訴してたな。
多分彼になるだろう」「山田さんってどんな人ですか」「仕事は出来る人だが、評
判はあまり良くない。出世に熱心だから」向こうのテーブルで、OLふたりがこち
らを覗き見しながらひそひそ話しているのに、鈴木は気づかない。
「ありがとう。私行きますね。お勘定よろしく」「わかりました」鈴木は力なく頷
いた。ウェイトレスが待っていたように近づいてくる。「お下げしてよろしいです
か」「は、はい」ふと目を落とすと、手も付けられていないきつねうどんがすっか
り延びていた。女性の皿はすっかり平らげられている。
鈴木は首をかしげながらきつねうどんをかき込むと、鰻重定食ときつねうどんの
代金を払って、店を出た。どうしてこういうことになったのだろう。
「699-99 Kフヤマダグンニシヤマダチョウアザヤマダホンマチ シティハイツ
ヤマダ207」若い男は、手元の幅広い紙にカタカナで打たれた住所と、アパートの表
札を見比べた。郵便受けに書かれた名前は「天馬ルミ夫」おそらく偽名であろう。
2階のドアの前で、男は黒い薄いカバンを抱きかかえると、背筋を伸ばした。
「こんにちわあ」しつこくドアを叩くと、やがて声が返ってきた。「だれだい」
「ご近所の者ですけどお」ドアがためらいがちに開く。振り乱したような白髪の
男が顔を出した。白髪にしては若い、40台の顔つきである。「なんだい」
若い男はへらへらと笑顔を作る。「新聞なに取ってらっしゃいます?」ドアがば
たんと閉じる。その一瞬で、中の男の顔を覚えるには十分であった。
赤い軽自動車のシートに納まった若い男は、待ちきれないように厚いファイルを
開いた。ドクロマンサー壊滅後に回収された資料からSEADOが作成した、ドクロマ
ンサー関係者のリストである。そのリストをめくる手が、程なく止まった。
「悪徳博士・・・」怪人改造スタッフのひとりであった。
組織が壊滅したさい資料を持ち出したとしても、それを読み出す機材が必要なは
ずであった。この当時、5インチフロッピーディスクドライブは30万円以上する高額
商品である。若い男はメーカーに忍び入り、各種のディスクのユーザ登録データを
盗み出し、わずかな個人客を片端から確かめて回っていたのであった。うっかり本
物の住所を書いたのが運のつきである。
若い男は、ファイルを大事そうに助手席に置くと、後部座席にカバンと幅広い紙
束をほうり投げて、エンジンをかけた。この当時、一般道でのシートベルト着用は
義務化されていない。
軽自動車は、元気なエンジン音を立てて走り去って行った。
黒縁メガネのでっぷりとした老人が、瀟洒な和風建築の呼び鈴を押した。老人の
名は高橋宗十。丹後のちりめん問屋の隠居という触れ込みで近くに住み着いてもう
5年にはなろうか。
家の玄関には「日本茶道連盟 八段 東千代」という達筆の看板がかかっている。
老人が茶道の稽古に通っているのは、どうも茶道ではなく”お師さん”が目当てら
しい、と近所では噂している。
「表のほうが言うには、どすな」宗十は喫し終えた茶碗を静かに目の前に置く。
ここで表とは、SEADOK市支部のことである。裏SEADOはSEADOの活動を補完してお
り、協力関係にある。もっともSEADOが裏SEADOを見る目は、警察がワイルド7を
見る目とあまり変わらないのであるが。
「デスモンガーの仕業やないか、いうことです」「なかなか、頭脳的な手口どすな」
茶碗を引き寄せるのは、師匠の東千代。先日の初老の女性である。「これから、ま
だ伸びまっせ」宗十の口調には微塵の切迫感もない。悪の組織の消長には、裏SEADO
は直接かかわらないのである。
裏SEADOは、たまたまぶつかった事件に首を突っ込んでは、普通の正義の味方で
は救いきれない人々を救い、踏み込めない悪を懲らしている。巨大組織となった
SEADOを立派に補完している、と理屈では言えるのだが、SEADOにしてみれば自分た
ちの限界を思い知らされる小癪な存在なのであった。
「志乃はんと三喜介はんからも、連絡(つなぎ)がありました」「では」
「明晩、いつもの時間に、いつもの場所で」千代は妖艶に笑う。「みなさん木屋町
の千三屋(せんみつや)にお集まりやさかい」
寒い夜である。午前零時ともなると、さすがに学生の街百万遍も人通りは少なく、
時折空タクシーが走りすぎて行くばかりである。
歩行者信号が青になると、東大路通りの中途で、宗十と千代は落ち合った。千代は
落ちついた紫紺の訪問着に白い無地のマフラー、宗十は古ぼけた薄手の灰黄茶のコート
に黄土色のマフラーという出で立ちである。
ふたりは頷き合うと、東大路通りの車道部分をそのまま南へ歩き始める。時折空
のタクシーが、警笛を鳴らして追い越して行くが、ふたりの歩調はいささかも揺る
ぐことはない。
夜だと言うのに、どこからともなくトランペットの音が聞こえてくる。
近衛通を過ぎて熊野神社前にさしかかると、もはや建物の明かりがまばらである。
24時間営業の喫茶店だけが煌々として、若者達の談笑に包まれている。
丸太町通りを横切ろうとするふたりに、角の銀行の大きな掲示板の裏から、ひとり
の若い女が合流する。厚い黒のストッキングに赤と黒のタータンチェックの短いパ
ンツ、同じ柄のセーターに、ショッキングピンクのマフラー。料亭「梨木」に最近
養女に入った、花背志乃であった。3人とも、ひとことも発さず、ただ歩いて行く。
トランペットはまだ聞こえている。
3人は東山三条から西へ折れて、当時まだあった三条京阪の大歩道橋をまったく
無視して、高山彦九郎像の前をかすめるように歩いていく。客待ちのタクシーと客
を乗せて出て行くタクシーが、警笛のシンフォニーを奏でる。その中を悠然と歩み
去る3人。
三条大橋の欄干で、若い男がふたりを出迎えた。素足に板場用の高下駄を履き、
黒いマフラーに縦縞の着流し、その裾が寒空にはためく。
宗十が、初めて口を開く。「寒うないか」
問われたのは、渡りの板前、江島三喜介。「いえ」短く答えて、欄干から飛び降
りる。和服の裾が風を切る。その音を聞いただけで、志乃がぶるぶると震える。
百万遍から徒歩30分はあろうと思われるのに、トランペットの音は間断なく続い
ている。
4人は頷き合うと、しょっちゅう警笛に追いかけられながら、三条大橋を西へ
渡って行った。
「ご栄転の前祝いに、まず一献」悪徳博士が、山田支店長に銚子を勧める。「あり
がとうございます」「ニューヨーク支店へお移りになられた暁には、ひとつその、
内部情報などをお漏らし願えれば」もみ手せんばかりの悪徳博士。
「あんたたちだけで、悪の組織が出来るよ」妙に目の鋭いネクタイ姿のサラリーマ
ンが、上座でひとりコップ酒をあおっている。「ご冗談を。今後とも、持ちつ持た
れつ」悪徳博士の幇間めいた取りなしに、山田支店長が笑顔を添える。
「他人を陥れて飲む酒は、うまかろうなぁ」
「何奴」すっくと立ち上がったのは、さすがに上座のネクタイ男、いやデスモンガー
の怪人ヘビモンガー。個室の障子が音もなく開く。どこからともなくトランペット
の音色が洩れる。「かっさばく!」障子の影から登場した三喜介は、菊屋正兼の柳
刃包丁を逆手に握っている。
「おのれ、ガラガラガラガラ」両手を顔の前にかざしたネクタイ男は一瞬にしてヘ
ビモンガーに変化する。しゃこおん、しゃこおん。ヘビモンガーの両手が空を切る。
蛇が腕を振るうのもおかしなものだが、あるのだから仕方がない。その隙に、悪徳
博士と山田支店長は逃げ出した。
山田支店長は、路地裏で前かがみになって激しく息を継いでいた。「どうされま
した」「はい、刃物を持った男に襲われて」若い女性の心配げな声に、山田は安心
して顔を上げた。
ぐわああぁん。菊屋正兼特注、堅いこと無比の柘植材のすり粉木である。山田は
額を打たれて昏倒した。そのふところに突っ込まれたものがある。モモンガマンサー
が振り込んだ現金はほとんどデスモンガーに渡ったが、いくぶんかは悪徳博士の口
座に入った。悪徳博士のアジトから盗み出した、その偽名口座の通帳と印鑑である。
「表の人間は、表で責任取りいさ」志乃は蓮っ葉に言い捨てると、警察に匿名通報
するためその場を離れた。
悪徳博士は、後ろを何度も振り返りながら、あたふたと木屋町通りを北上してい
た。「もしい」彼を呼び止めた年寄りがいる。「この道は、どう行ったらええんでっ
しゃろ、もし」振り切りかねた悪徳博士は、差し出された地図らしきものに目を落
とす。
それは地図ではなかった。黒々と墨で書かれた、「冥土」の2文字。はっと顔を
上げようとしたがもう遅い。宗十はひらりと宙を舞っていた。
「五山招魂キーック!」
倒れて爆発する悪徳博士の姿を、宗十は振り返ってみようともせず、背中を丸め
て立ち去って行った。
「千三屋」の裏手から噴き出した黒煙は、やがて人の形を取った。ヘビモンガー
はかなわぬと見て、三喜介の刃を逃れたのである。
「そういう仕掛どしたか」木屋町の裏手と言えば先斗町である。和服の女性が佇む
姿に、まったく違和感はない。ネクタイ男に戻ったヘビモンガーの目に、やがて凶
悪な光が宿る。「何者」隙を窺うヘビモンガー。
「無間邪道の闇夜をくぐり」路地の影から志乃が現れる。
「衆生済度の願かけて」いつの間にか、スナックの入り口に宗十が寄り掛かっている。
「因果報じる天の網」千三屋の屋根の上に、三樹介がすっくと立つ。
「去んでもらいますえ」袖から手品のように千代が取り出したのは、見事な天目茶碗。
それをサイドスローでヘビモンガーに投げる。「逸品投げ!」狙い過たず、茶碗は
ヘビモンガーの側頭部を直撃して千代の手元に戻る。その茶碗にいつの間にやら入っ
ていた濃茶を千代が一口、二口、三口喫したその時、ヘビモンガーはぐらりと崩れ、
爆発した。
野次馬がそこかしこの店から顔を出す。千代は茶碗を器用に袖の中に収めると、
無言で立ち去って行った。他の3人の姿は、すでにない。
春は、まだ遠そうである。
完